「十人寄れば十国もの」です!

人の目~モノごとの見方、受け止め方、解釈の仕方~などは、本当にさまざまで面白いものだなァ、とつくづく思います。

若き日の川口浩、野添ひとみが好演した吉村公三郎監督の大映映画「地上」(島田清次郎原作=1957年公開)を観(み)る機会を得、それについての感想です。

大正初期の北陸(石川県金沢市)を舞台とした情緒的なこの映画は、大河“川口浩”平一郎と吉倉“野添ひとみ”和歌子が、ともに惹かれ合い、身を焦がす灼熱の恋の末に最後は別れる、というストーリーです。

そのラストシーン-。

東京に向かう“川口”平一郎を乗せた列車を“野添”和歌子が必死に追い、遠ざかり、次第に小さくなり、やがて視界から消えていく列車の、最後は音を聞くように“野添”和歌子が、レールに耳を当て、そこで「終」の字幕となります。

さて・・・そのレールに耳を当てるシーン。私が小さな疑問を投げかけました。

私「確か左の耳をレールに当て、顔は下り方向を向いていましたよねェ。それ、ちょっと不自然ではないですか? 身を焼き尽くす恋の末の未練なら、右の耳をレールにあて、顔(視線)は上り方向、去り行く列車を熱く追うのが自然でしょう」

これに対してさまざまな意見が出ます。

Aさん「それはカメラマンのアングル、撮影角度だったのではないですか? 右の耳をレールに当てた顔を撮った場合、去り行く列車や背景、レールの遠近感が写せない。そうした都合だったのでは?」

未練?・・・一転、決別への決意!

もっともな解説です。・・・ですが、撮影角度の都合で終わらせてしまっては、この大事な場面、ちょっと配慮が足りないのでは? とも思います。

そんな矢先、鋭い観方が飛び出しました。

B女史「ねえねえ、男たちはそんな観方しか出来ないの。あれはねえ、走り行く列車の音に未練を感じているのではないの。早く遠ざかれ、行ってしまえ、という決別の意志表示なのよ。だから背中を向けるのが当たり前でしょ。撮影角度の都合なんて・・・計算ずくの逆向きです」

ウ~ン! 凄いですねェ。そう言われてみれば、相当に深い観方ですが、なるほどねェ、と思ってしまいます。

話はガラリと変わりますが、5月3日(日本時間同2日)に行われたプロボクシングの「今世紀最大の対決」とされたフロイド・メイウェザー(米国)vsマニー・パッキャオ(フィリピン)戦=メイウェザーの判定勝ち=について、このところ、あの試合は果たして良かったのか? という問いかけをよく受けます。

私自身の受け止め方は、良かった、面白かった、です。

その理由としては、メイウェザー&パッキャオとも、今日の地位を築いた自分のボクシング・スタイルを出し合っての試合だったから、ということですね。

この2人の対決、パッキャオが攻め、それをメイウェザーが防ぐのは、当然の展開であり、パッキャオがとどめとなる“あと半歩”の踏み込みが出来ず、その“あと半歩”の踏み込みをメイウェザーが阻んだことが勝負の分岐点となるスリリングな攻防に、観る側も気を抜けず、最後まで緊張感が持続されていました。

攻めるパッキャオ、逃げるメイウェザー。善玉のパッキャオ、悪玉のメイウェザー。会場から聞こえるブーイングは、メイウェザーへの不満で“つまらない試合だった”という観方も多かったかもしれません。

・・・が、モノごとは、人それぞれ、十人十色(十人いれば顔も考え方もまちまち)あるいは、十人寄れば十国もの(十人集まると生国がそれぞれ違うように個性も違う)-ですね。

だから面白いのかもしれません。
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夢へ-。負けられないV3戦

さて・・・八重樫東(31=大橋)は、どうでしょうか?。

唐突に「どうでしょうか?」と問いかけられても、意味が分かりませんが、つまり、この試合を“どう位置付けているだろうか”ということです。

4月6日、東京・大田区総合体育館で開催されるプロボクシングのダブル世界戦、WBC世界フライ級王者・八重樫のV3戦です。

八重樫はこの試合、同級8位のオディロン・サレタ(28=メキシコ)を迎え撃ちますが、とともにサレタに勝てば次のV4戦、あの最強戦士“小さな巨人”のローマン・ゴンザレス(26=ニカラグア、帝拳)とのビッグマッチが濃厚となっているのです。

こういう情勢のもと、よくあることですが、ともすれば“ロマゴン”ことゴンザレス戦に意識が傾き、目の前にある肝心の防衛戦がおろそかになりがちとなる、いうこともあり、その意味で「どうだろうか?」となったわけでした。

2011年10月にWBA世界ミニマム級王座を獲得。その後、12年6月の井岡一翔(井岡)との死闘(WBA&WBC世界ミニマム級王座統一戦=判定負け)を経てフライ級で復活。保持する2階級目のWBC世界フライ級王座は、もう3度目の防衛戦を迎えることになりました。

八重樫の戦い方には“肉を斬らせて骨を断つ”という印象があり、井岡戦でも見られたように、どこか“捨て身”的なところがあります。

男・八重樫の勇気ある決断!

私が記憶に残しているのは07年6月、WBC世界ミニマム級王者のイーグル京和(角海老宝石=当時)に挑んだ初の世界戦で2回、イーグルの頭があごに当たり、あごの左右両側を骨折したアクシデントです。

診断は全治6カ月。その年を棒に振り、再起戦は翌08年4月となってしまいましたが、そこから今に上りつめたことは敬意に値するものでしょう。

こうした八重樫の“進化”を見たのは13年12月、東京・両国国技館で開催されたV2戦、難敵の元WBC世界ライトフライ級王者エドガル・ソーサ(メキシコ)との一戦でした。

好戦的なソーサ相手に八重樫が選択したのは、ともに打ち合うのではなく、足をフルに使って右に左にせわしなく動く戦い方でした。つまり、勝つためのスピードとフットワーク・・・。

いつもの八重樫とは違っていましたが、私はそこに王者となって身につけた“幅”を感じました。

まず、目の前の相手に勝つことでしょう。そして・・・次に来るだろう“ロマゴン”とのビッグマッチ・・・。

ゴンザレスは現在、38戦全勝(32KO)の戦績を誇る、このクラスではまさに“怪物”的なハードパンチャーで元2階級制覇王者です。強さゆえに対戦相手が不在の状況にゴンザレスは、マネジメント契約を結ぶ帝拳 (本田明彦会長)に「もっとチャンスがほしい」と不満を訴えることもしばしばでした。

そうした中で八重樫が自ら「彼の挑戦を受けてもいい」と発言したのですから、並みいるボクシング記者も驚き、ファンも驚き(と思いますが・・・)何よりも“ロマゴン”自身がホントか? と驚いてしまう有様でした。

そんなビッグマッチを視野に入れ、八重樫はサレタとのV3戦に臨みます。

「どうだろうか?」の危惧・・・くれぐれも集中力を乱さず、次の夢実現に向けて“取りこぼし”はなし! と願いたいものですね。

今井浜の痛~い思い出

8月最終週の3日間、東伊豆の今井浜で遅い“夏休み”を過ごしてきました。

静岡・賀茂群河津町の“河津温泉郷”に含まれる今井浜海岸は、下田の手前、下田から伊豆急行線で15分のところに位置し、夏場は混雑を極めるポピュラーな白浜海岸と比較して、まだ「白砂青松」という、昔ながらの表現が似合う静かな海辺を保っています。

毎年夏は今井浜、と決めて今年で4年目となりました。車で行けば熱海を経て、伊東から東海岸の明るい海辺を楽しみながらの快適なドライブ、電車でも今は「スーパービュー踊り子」などが運行されており、便利になったものだなァ、とつくづく思います。

というのも、私にはこの今井浜、実は思い出があり、何十年かを経て夏は今井浜、と決めたのもそれが理由だったのです。

古い話になりますが、出来ごとは遠~くさかのぼり、昭和39年(1964年)に戻ります。同年の日本は、秋に東京オリンピックが初開催されたり、それとときを同じくして東京~新大阪を結ぶ東海道新幹線が開業されたり、人々の口からは「戦後の終わり」という言葉が盛んに聞かれていた時代でした。

その年、大学に入った私は、自分への“祝・入学”として、社会の急速な進歩とは逆の何かがしたくて友人と2人で、じゃ、伊豆半島を一周、歩こうぜ! と思いつきの企画、実行に移しました。

金をかけない無銭旅行、ただひたすら歩くこと、がこの徒歩旅行の基本的な約束ごとでした。キャラバンシューズを履き、今は軽量で機能的なデイパックやバックパックが出回っていますが、当時はまだなく、登山用のゴツいキャンパス地のザックに寝袋をくくりつけ、何を考えたか、足にマメが出来たとき用にとゲタも一緒にくくりつけ、では、スタート! 荷は重くても、懐はまったく軽い、という気ままな旅が始まりました。

雨の中での野宿

今井浜

出発点は伊東です。そこから東海岸の道をテクテクと歩き始めました。大川、北川、熱川、稲取・・・さらには下田を経て西海岸へ、と旅は延々なのですが、歩き始めて第1日にしてもう、足の裏にマメができ始めました。今井浜の思い出というのは、第2日の夜、この海岸にたどりついて2人とも、もう完全に歩けなくなってしまったことなのでした。

だいたい最初に来る“ヤマ”というのは、耐え難くきついものと相場が決まっています。それを通り越してしまえば、別に苦痛もどうということがなくなってしまうものですが、私たちにとっての最初のヤマが今井浜だったのです。

足の裏のマメがズキズキと痛み、よせばいいのに脱げば再び履くのがきつくなるのを承知でシューズを脱いでしまったものですから、一気に足がふくれあがり、大きなマメの中で移動する水が痛くて、これでは歩けないと針で穴をあけ、押し出してしまいます。持参の薬品類など少なく、化膿止めは赤チンをかけるだけ。弱り目に祟(たた)り目とは、このことで不運にも暗い空から雨が落ちてきてシュラフ(寝袋)にビニールを巻きつけて海岸での野宿と相成った次第でした。

これが若き日の今井浜での思い出です。

で、その後の旅はどうなったか、ですか? もちろん完遂です。西伊豆に入った後半は快調! 絶好調! 足裏のマメも固まってルンルンと飛ばし、駅の待合室で、お寺の軒先で、公民館の会議室で・・・当地の人々の人情あふれる一宿のご好意に力を得ながらゴールの戸田村・大瀬崎(左の肩)まで一週間で完徒でした。

そんなことをやってからもう、40数年が経っているのです。毎年夏、今井浜の静かな浜辺を散歩するたびに足の裏が心なしか傷みます。そういえば以前のある日、一緒に歩いた友人が言ってきましたっけ。

「おい、アレ。青春の原点回帰。もう一回、やってみようか」

いやはや、高齢者は元気です。私? とんでもない! もうそんな元気はとてもありません。

高校野球の面白さ

真夏の甲子園を舞台とした高校野球が連日、熱戦を展開させています。

昨8月11日の第5日は、東海大相模(神奈川)が第3試合で登場。藤沢市在住の私としては見逃すわけには行かず、テレビの前にかじりついてしまいました。

同校はすでに“古豪”に位置づけられる私学の雄ですが、今春のセンバツではまさかの初戦敗退、夏も実に33年ぶり(通算8度目)の久々の出陣とあって、果たしてどうかな? という気持ちで見ていました。

サイドスローにフォームを変えたエースの一二三慎太投手は、初陣の水城(茨城)にいきなり先制点を許すなど被安打6、失点3と途中、やや成り行きが心配された出来と思えました。が、東海大相模らしい15安打10得点の豪打の中には、一二三投手の本塁打を含む4安打3打点という打の活躍もあり、昔、しばしば見られた「エースで4番」(一二三投手は5番打者でしたが・・・)の構図が今でも、東海大相模ほどのチームにも、まだあるのだなァ、と微笑ましくなってしまいました。

高校野球、特に夏の大会に惹(ひ)かれるのはやはり、炎天下での汗みどろの激闘とか郷里の期待を背負った一生懸命さとかがあると思いますが、見ていて最も感じることは、負ければ終わり、の必死さが観客の心に響くことではないでしょうか。

プロ野球などの年間を通して何勝何敗を争う長期戦には、中には“捨てゲーム”などというものもあり、この1戦に懸けるという必死さでは、短期戦の高校野球にかなわず、従ってプロ野球では結果がすべであるのに対し高校野球では勝ち負けは二の次、過程の必死さに観客は涙し、拍手を送るところがあると思います。

必死さが生む筋書きのないドラマ

その極致だったのが1979年(昭和54年)の夏の大会、いまなお伝説の名勝負として高校野球史に残る、3回戦で激突した箕島(和歌山)vs星稜(石川)の死闘でした。

この大会、私はスポニチの取材記者グループの一員として甲子園にいましたが、第4試合に登場した両校が1-1で延長戦に入るまでは、ごく普通の取材態勢でした。ところが、延長戦に入って以降、彼ら高校生の必死さが生み出す、まさに筋書きのないドラマには興奮し鳥肌が立ち、もはや冷静にスコアブックにスコアなどを書き込んではいられない異様な状態となりました。

延長12回、星陵が1点を奪った後の裏、2死から箕島が本塁打で追いつく。延長16回、星陵が1点を取った後の裏、箕島は2死から一邪飛を打ち上げ、誰もがこれで終わったと思ったら、ボールを追った一塁手が人工芝の境目に足を取られて転倒する、そして次打者の本塁打でまた振り出しへ・・・。

最後は引き分け再試合となる寸前の延長18回、箕島が劇的なサヨナラ勝ち(4-3)を収めるのですが、3時間50分の“奇跡の野球”にネット裏の記者席に陣取った各社の担当記者たちは、このドラマをどう整理したらいいか、さすがにしばらくは動けず、時間を要していました。

「夏の甲子園には魔物が棲む」としばしば言われます。この魔物はきっと、高校生たちの負ければ後がない必死の戦いに刺激され、目覚めさせられてしまうのでしょう。

奇遇

BS日テレが放送する「こころの歌」(毎週月曜日午後10時~)が好きで、この時間帯に在宅のときは、混声合唱ユニット「FORESTA」の、肩の力を抜いた自然体で語り継ぐ、古き良き日本の歌に聞き惚れています。

7月19日の月曜日は、安田祥子&由紀さおり姉妹をゲストに招いたスペシャルコンサートが放映され、その中で歌われた「「あざみの歌」「さくら貝の歌」「山の煙」などに一人でシビレまくりました。

これらは1945年(昭20)代の半ばに作曲家・八洲(やしま)秀章氏(本名・鈴木義光氏=故人)の哀愁にあふれたメロディーで世に出てヒット。「あざみの歌」の、やぁ~まにはやぁ~まのォ・・・は、私たちの年代が中・高校時代に自然に口ずさんでいた“こころの歌”でもあるのです。

翌7月20日夜、藤沢市内(神奈川県)の行きつけの居酒店にブラリと立ち寄ったところ、先客でうまそうにビールを飲んでいたのが沢木順さんでした。現在、ソロ・ミュージカルという独自のジャンルで活躍するアーチストの沢木さんは、知る方はもちろんご存知でしょうが、八洲さんのご子息なのです。

北海道生まれの鎌倉育ち。沢木さんは、この店を切り盛りするマスターとは同級生の間柄で、高校時代は藤沢市内の名門進学校である県立S高校の水泳部でマスターとともに活躍。進学した早稲田大学で演劇を学んで卒業後、プロとなり今日に至っています。

別テーブルでの通路越しの会話から、めんどくせぇ~なァと同じテーブルへと移り、沢木さんが私の古巣・スポーツニッポン新聞社の文化・芸能記者の数人を知っていたこともあり、話が次第に熱くなります。先日も私の友人と午後5時から始まって、マスターを交えた会話が次第に熱を帯びて止まらなくなり、気がついたら夜も白々と明けて、ついに午前5時になってしまった、という大反省があったばかりなのに、再びそんな雰囲気となっていました。(この夜は何とかその日のうちに終えましたが・・・)

沢木さんの凄いところは、衰えのない旺盛な情熱でしょうか。年齢的には既に60代の半ばに達していますが、歳には到底見えない若々しさと、本人が言う「あと15年」に燃やす前向きの熱意が半端でないのです。このあたりは私も相当に刺激を受けるところとなりました。

亡き父・八洲氏に関してもこの秋、業績を偲ぶ形で家族を中心としたコンサートを鎌倉で開催する予定でいるそうです。父が作曲した名曲の数々・・・中でも倍賞千恵子らが歌った「さくら貝の歌」は、八洲氏自身の初恋の人との死別を歌ったものと語られていますが、それを息子が歌い継ぐ“魂の継承”は、人々の涙を誘うことになるかもしれません。

それにしても「FORESTA」が歌う八洲氏の美しい旋律がまだ、心に余韻を残しているときに、そのご子息とバッタリ出会うなんて・・・。世間は狭いというか、奇遇とはこういうことを言うのかもしれませんね。








プロフィール

佐藤 彰雄

Author:佐藤 彰雄
◆生年月日 
1944年(昭19)8月生まれ
◆出身 
神奈川県
◆プロフィール
スポーツニッポン新聞社在職中は運動部記者として大相撲、野球、ゴルフ、ボクシング、格闘技などを幅広く取材・執筆。
現在はフリーの立場でボクシングを中心に取材活動を続けている。
ゴルフのマスターズなど海外取材経験も豊富。

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