FC2ブログ

故・佐瀬稔氏の思い出とともに…

在宅が多くなり、ヒマつぶしに結構、本を読む時間が増えました。

といっても新刊書は敬遠。書棚に無造作に詰め込んである、昔読んだ本を取り出し、埃を払って読んでいます。面白いものでかつての読後感と今とではかなりの差がある本もあり、違うものを読んでいるようなときもありますね。

そんな中、やはり“永遠だな”と思うのが故・佐瀬稔氏(1998年5月23日死去=享年65)の著作です。

佐瀬氏は元報知新聞(現・スポーツ報知)の記者で他社の私たちともつながりがあり、現場を離れた後、運動部長、文化部長などを務めていましたが、後に本人に聞いたところ「管理職になって人を使うのがイヤ」(もっとも酒が入っていたときの話でしたが…)で退職。フリーランスになったとのことでした。

著書は、ボクシングなどスポーツもの、社会ネタを扱った事件もの…など新聞記者らしく多岐にわたっていますが、私が読み返した数冊は、登山家を扱ったもので綿密な取材によりクライマーという山なしでは生きられない、社会性と離れた人物像の描き方が巧みで、文章の上手さもあり、いずれも、いつ読んでも読み手をグイグイと惹きこみ、あきさせない魅力がありました。

そんな中のひとつ「喪われた岸壁~第2次RCCの青春群像」に思わず、ニヤリと笑ってしまうような、懐かしい記述がありました。

かつてあった山好きの10代少年たちによる丹沢(神奈川県)の“風俗”です。

佐瀬氏はこう書いています。

かつてあった奇妙な丹沢風俗

〈丹沢の沢筋には、奇妙な風俗が流行している。だぶだぶのニッカー・スボンに工事現場風の脚絆。かつては伊達だったかもしれない背広の古チョッキ。頭にはツバを切り落とし、わざと変形させたソフト帽をかぶる。古ソフトが手に入らない者は、工事現場そのものにねじり鉢巻きを用いる。(略)〉

佐瀬氏は調子よくさらに続けます。

〈彼らを現場労働者とへだてるのは、肩から脇の下にかけた麻のザイルと腰に腰に下げたハーケン、カラビナである。ことさら素性の悪さ、あやしげさを強調するファッションを身につけている一方で少年たちは、ザイルやハーケンによっておのれのアイデンティティを主張していた。(略)〉

いいですね~。私は高校時代、山好きの友人とともに同じ県内の山ということもあり、丹沢にはよく出かけたものでした。最初は東丹沢のダラダラと長い、通称“バカ尾根”をせっせと歩き、次第に沢筋に入っていきます。

当時、そこには佐瀬氏が描く、バンカラな風俗を生きがいにしているかのような少年たちがゴロゴロいました。かく言う私もまだ10代の高校生。郷に入れば…ではありませんが、古チョッキを愛用していたことが懐かしく思い出されます。

そうした彼らはどうしたか。佐瀬氏がグイグイととどめを刺します。

〈東丹沢で沢登りに入門し、修業がひととおり終わると雨山峠を越えて西丹沢に入った。(略)雨山峠の道は、いつかは谷川岳へ通じる。谷川岳から日本アルプスへ。見果てぬ夢であることは分かり切っているが…。(略)〉

何も持たない少年たちが唯一、山に自分の存在を懸け、いずれは…と見果てぬ夢を見続ける風景が、あの時代の丹沢には確かにあり、あるいは地獄の一丁目だったかも知れない丹沢を原点とする青春群像を佐瀬氏は、上手く描いてくれていました。

佐瀬氏とは、私がスポニチ本紙のボクシング記者時代によく取材現場で顔を合わせました。

同様の取材をしていても独自の視点で記事を展開させる上手さには舌を巻いたものですが、ときを経て古い著書を読みながら、その精力的な姿が懐かしく思い出されます。
スポンサーサイト



「力石徹のモデルになった男」

“極真の龍”と謳われた極真空手・山崎照朝氏(73)を描写した新刊書がこのほど発売されました。

題して「力石徹のモデルになった男~天才空手家・山崎照朝」(東京新聞社刊)-筆者は東京新聞運動部に所属する森合正範記者です。

1947年(昭22)7月31日生まれ。 山梨県出身。極真空手の「第1回オープントーナメント~全日本空手道選手権大会」(1969年9月)を制覇するなど“極真の顔”として重い存在を示していた山崎氏は、引退後の現在、東京中日スポーツ新聞に格闘技コラム「撃戦記」を執筆するなど格闘技評論家として活躍していますが、実は「“力石徹”のモデルだった」ということは、知る人ぞ知る出来事として伝えられていました。

2018年12月に記された自身のコラム「撃戦記」には、こんなことが明かされています。

〈週刊少年マガジン(講談社)で1968年(昭43)に連載が始まったボクシング漫画「あしたのジョー」(梶原一騎原作)が今年50周年を迎えました。(略)68、69年の大学生は全共闘世代。東大紛争から日大全共闘と拡大した。学生は右も左もバリケードの中。梶原一騎原作でブームになったスポ根漫画の「あしたのジョー」は荒れた学生の心を癒やしてくれた〉

ちなみに山崎氏は、山梨県立都留高校2年時の1964年(昭39)冬、ケンカに強くなりたくて極真会館に入門。山梨県の実家から東京・池袋の道場まで片道約3時間を通い抜きます。週刊少年マガジンの「あしたのジョー」にライバルの力石徹が初登場したのが、山崎氏が日大農獣医学部に入学した翌月の5月-。

「撃戦記」での回顧を続けます。

〈極真空手の大山倍達は梶原先生と懇意で、私も梶原先生に声を掛けられた。ある日、梶原先生の事務所に呼ばれ、先生に「山崎よ。ジョーにライバルができたんだ。力石と言うんだ。モデルはおまえだよ」と言われた。(略)先日、連載50年の節目に新聞とテレビから取材を受け、当時を振り返った。解除にメドが立たないバリケード。そして毎日道場で空手に熱中していたあの頃にお会いした梶原先生。「あしたのジョー」は梶原武士道。先生も力石徹の剛直さが好きだったに違いない〉

空手家・山崎照朝の“おとこ道”

私がスポニチ本紙の運動部でボクシング担当を拝命したのは1987年(昭62)でその年の7月、WBC世界ジュニアウエルター級(現スーパーライト級)王者の浜田剛史(現・帝拳代表)がレネ・アルレドンド(メキシコ)とのリマッチに敗れたころでした。

とてもひと筋縄ではいきそうにない各社のボクシング担当記者の中に山崎氏もいて名刺交換の際、極真空手の“龍”ということを知って「この人が…」とびっくりしたものでした。

浜田の王座陥落後に帝拳(本田明彦会長) は、1988年(昭63)3月に当時、全盛の統一世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)を東京に招へい。各社担当記者の日々、シ烈な取材合戦の中、新聞紙上の戦いとは別に山崎氏とは気の合うところを感じ、親しい記者仲間としての間柄が深まったと思います。

私から見れば、マスコミの現場ではなく、極真空手を背負う重鎮として要職に就いていてもおかしくない、と山崎氏には思いますが、そういうことにはまったく興味を示さない人なのですね。

新刊書の筆者・森合記者も冒頭の「はじめに」でこう書いています。

〈喫茶店に誘われ、いつも話す内容は、試合の進捗状況やボクシング界の現状、試合の感想ばかり。山崎さんは取材の昔話をすることはあっても現役時代の話は一切しなかった〉

本書を読んでいただければ分かりますが、自ら“人一倍”という、こと空手の稽古に関しては、あるいはさまざまな相手との戦いに関しては、凄まじいばかりの“山崎流”が散りばめられていながら「オレは表に出るのが嫌いだ」に徹しているのですね。

つまり、若きころ、空手の稽古のために山梨から東京まで往復7時間弱の道のりを黙々とクリアした、などということは、言うのは簡単でも実際は簡単ではないこと。それを貫き通したことに見られるように、山崎氏はストイックな“武道家゛なのですね。

いろいろな意味で精神論を尊ぶ空手家ゆえに政治的なことが嫌いな人。「武道の精神は社会に生かすために学ぶもの。だから空手で飯を食っていく考えはなかった」と言い切り、山崎氏が漂わせる“極真の龍”像は「謙虚で剛直な武道家」であり、あるいは「肉体を削り、渇きに耐え、孤独な己と闘い」あげく厳しい減量で死に至る力石徹の魂は、山崎氏の内面にもあるような気がしてしまいます。

この書に関して山崎氏は、私に「森合正範(筆者)の思い込みが強い本ですから恥ずかしい。紹介はやめて下さい」というメールを送ってきました。

相変わらずの謙虚さですが、私は、数多くいる山崎ファン、あるいは一般の方々にも一読していただければ…その一読に値する内容に仕上がっている本、と思います。

もうひとつの鎌倉散策

ちょっと珍しいメンバーが鎌倉に集まりました。

在京のスポーツ新聞記者で格闘技ライターのY君、ボクシング専門誌の編集者兼記者のM君、そして私の3人です。

いずれもベテラン記者。日ごろ、プロボクシングの世界戦の会場で顔を合わせている、気の合う仕事仲間ですが、まさか、仕事抜きでこの鎌倉の地に集まるとは・・・。

ことの発端はY君の、サトーさん、たまには鎌倉で美味(うま)いシラスでも食べたいね、の言葉でした。

それなら・・・と即決! 4月17日正午、JR東海道線(JR横須賀線)の「大船」駅で待ち合わせ、鎌倉に向かいました。

この面々、もうトシを取りましたが、昔を振り返れば、プロボクシングの3団体統一世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)が全盛を誇った時代、1988年3月、1990年2月、と2度の来日時に日々、密着して張り合ったライバル同士です。

年月を経ても、あのときの鮮烈な日々は、忘れようもなく、過ぎ去ってみれば、お互いによく働いたものだ、とそれが何となく“戦友的”なつながりとなって今に至っているのでした。

「大仏が観たいな」とY君。エッ、何? 大仏かよ、と私-。

ことわざに「燈台下(もと)暗し」とあります。私などは「江の島」の近くに住みながら、めったに「江の島」などには行かないのと同様、鎌倉といえばシンボル的存在の大仏サマとあって、あまりにも修学旅行的というか、外国人観光客的というか、当たり前すぎてその前を何度も通りながら、なぜか中には入らないのが普通でした。

大仏さまネ~、ずいぶん一般的だね~、ま、いいか、行ってみようか、と鎌倉から「江ノ島電鉄」(通称=江ノ電)の「和田塚」駅までブラブラ歩き、そこから江ノ電に乗って「長谷」駅下車。大仏サマが鎮座する「高徳院」(鎌倉市長谷)に向かいました。

参拝料200円を払って中に入ると・・・さすがデッカイですね。台座を含む総高約13・4メートル、仏身高約11・3メートル、重量約121トン、の巨大な高徳院本尊・国宝銅造「阿弥陀如来坐像」が、見上げる参拝者を包み込むように柔らかな目で見下ろしています。

久々に大仏サマとご対面

「高徳院」の資料には、1252年(建長4)から10年前後の歳月をかけて造立されたとみられる、とありました。

また現在の大仏サマは「露座(屋根のないところに座っている)」ですが、もともとは大仏殿があり、その中に安置されていた、とのことでした。長い年月の間に地震や津波などの自然災害があり大仏殿は倒壊、その後、大仏殿は再建されずに露座のままとなったようです。

が、こうして眺めると屋内よりむしろ屋外のほうが、風雪に耐えて・・・といった印象があり、なかなかの存在感ですね。

まあ、いかにも修学旅行的などと言いましたが、こうして足を運んでみればやはり、それなりの価値はあるものです。

「高徳院」を出て鎌倉に向かう由比ヶ浜大通りを歩くと途中に「鎌倉文学館入り口」の信号があり、左折すると同文学館に着きます。

ここには大佛次郎、川端康成、永井龍男ら“鎌倉文士”たちの資料が常設されており、文学青年・・・あ、いや、もう“文学ジイサン”になってしまいましたか、M君にはぜひ見てもらいたくて案内しましたが、臨時休館となっており残念な結果となりました。

では・・・と江ノ電の「由比ヶ浜」駅から鎌倉に戻り、Y君ご所望の“シラス丼”でランチした後、小町通りの入り口に建つ、創業1945年(昭和20)の老舗の喫茶店「イワタ」(鎌倉市小町)でコーヒーを味わい、その次はこれもまた、呑まない“甘党”Y君の希望で甘味処を探します。

これがまた、小町通りから若宮大路に出る横丁の路地にあったんですね~。「あかね」(鎌倉市小町)という店なのですが、手づくりが売り物の「あかねの煮あずき」は甘さ控えめで男の口にも結構合い、美味かったですよ。

この店は、午前中は朝食を出し、昼から甘味処となり、夜は居酒屋になるんです、と店の人は話してくれました。

まあ、そんなこんなで、日ごろの仕事仲間がまったく仕事抜きの時間を過ごしました。こんなにノンビリとブラついたのは久しぶりのことだよ、とM君が言いました。

確かに現役時代、常に何かを追って走り回っていた習慣が、トシを経ても抜けません。

ダメだね~。もう、こうしたノンビリした時間を多く過ごしたいよね~。

3人の意見が一致-。

私自身も、同じ鎌倉散策ながら、例の鎌倉好きの友人Fたちとの、ちょっとマニアック的な鎌倉歩きとはまた違った雰囲気となった仕事仲間との鎌倉歩きを堪能してきた次第でした。

良き飲み仲間とのひととき~パートⅧ

3月となり、世の中は目下、卒業式のシーズンです。

涙と笑い、そして夢と希望・・・いいですねェ。若い人たちの巣立ちのときはいつも感動的-。

・・・が、ここばかりは、相変わらず“卒業できない”面々で埋まっていました。行きつけの「呑み処(どころ)M」のカウンターです。

3月1日、この店は2004年3月の開店から15周年を迎えました。

それより以前の2月下旬の某日-。

私の隣に座って呑んでいた、北海道は室蘭出身で裕ちゃんの歌をこよなく愛する硬派でロマンチストのTちゃんが、店が15周年を迎えることをポツリともらしました。

それを知ったいつもの常連客、そりゃ、やらなくちゃな、やろうやろう、と一気に15周年記念のお祝いを決定! このあたりのテンポの速さは、日ごろ、あーだこーだと口うるさく持論を展開させて譲らない熟年男たちの、しかし、呑み仲間としての横のつながりの強さを感じます。

こんな雰囲気にちょっぴり涙ぐんでしまったCちゃんママが言いました。

〈やだやだTちゃんたら。言わなくてもいいのに・・・。自分の中だけに収めておくつもりだったのにィ〉

いい店はいい店主が“扇の要”になっているかによって決まります。いい客が集まるのは、やはり、いい店主がそういう人たちを呼び込むのです。

この店の良さも、こういうCちゃんママの人柄によるところが大きいのですが、いやいや、それにしてはちょっと癖のある連中ばかりが集まりすぎるきらいはありますがね。

そういう経緯があって当日夜、8~9人も座ればいっぱいになってしまうカウンター席が常連客で埋まりました。

この日の決まりごとは、ひとりひとりが何かを持ち寄ることです。そんな中、ワインを持ってきたり、日本酒を持ってきたり、焼き鳥を持ってきたり・・・でカウンターの上はおもちゃ箱をひっくり返したようにゴチャゴチャになり、いかにも「M」らしい? 記念日らしさがない記念日の様相-。

「15周年記念」~よく頑張りました

私が地元・藤沢市内(神奈川県)にあるこの店「M」に出入りを始めたのは、スポニチ本紙への勤務を終えた後の2008年6月からでした。

そう・・・ですからもう、11年も通っていることになるんですね。

それ以前の在職時代は、自宅に帰るのは、だいたい寝に戻るだけの深夜帰宅の日々であり、地元で呑むなどということはまず、あり得ない生活でした。

しかし、面白いものですね。地元の店への出入りを始めると“地元つながり”とでもいうのでしょうか、横に座った見知らぬ人たちと話し合っているうち、何かの接点が出てきてつながっていくのですね。

私は、この「M」で起きるそういう人たちとの出会い、思いもよらない点と点のつながりに驚いたり楽しんだりしながら、長い年月を過ごしてきたのだと思います。

「呑み処」というのは、そうした社交を提供する場なのでしょうが、たった一人でこの店を切り盛りしてきたCちゃんママの15年にわたる頑張りは、やはり称賛に値するものでしょう。

Cちゃんママが言いました。

皆さんのおかげです。皆さんが場をつくり上げてくれているんですよ

昨今の景気の悪さに先行き、不安のあることものぞかせつつ、Cちゃんママは“やれるところまで・・・”と心機一転を口にしてくれました。

そして・・・ではそろそろ、とマイクを求めたのは歌自慢のAさんです。

まあ、私は、この人が声量豊かに歌い上げる加山雄三の「海・その愛」の上手さには感心してしまいますが、Aさんが歌った後は、続く人がいなくなる“困った人”ぶりは相変わらず。彼は当初、それを気にして控えめだったのですが、最近はむしろ、楽しんでいるようで、歌う人がいないのならオレが・・・と次第にわがままをエスカレートさせています。

“ストップ・ザ・A”とばかり、それを察知してマイクを握ったのが公務員のM女史・・・埼玉在住の彼女は、桑田サザンの興行を追っかける“茅ケ崎命”の湘南大好き人。にもかかわらず満を持して歌い上げた松田聖子に一同、ちょっと違うんでね~の、と言いつつ、細い体からよくそんな声が、とその上手さには舌を巻いてしまいます。

こうしてああして・・・にぎやかに熱く「M」の15周年記念日は幕を閉じ、外に出ればまたまだ冷たい夜風です。

春の気候に冬の気候がまだまだ入り込もうとする三寒四温の日々-。

(*このシリーズは「交遊」の項に収めてあります)

スポーツ紙は応援歌!

“球春”到来ですね。

プロ野球各球団が2月1日、一斉にキャンプをスタートさせました。

思い出しますね~。

以前のことを振り返れば、私もスポニチ本紙に在職中、5年間ほどプロ野球を担当した時代がありました。1月の自主トレから2月のキャンプ、さらに3月からのオープン戦転戦、そしてペナントレース突入・・・プロ野球担当記者の日々は、担当球団と常に同行、家族と過ごす時間より球団と過ごす時間のほうが長い、という、一般的には当たり前でないことが当たり前の生活となります。

担当球団の監督・コーチ、選手、スタッフたちとともに過ごすキャンプの1カ月間は、調整に励む選手たちにとってもそうですが、記者たちにとってもまた、大事なときとなります。

この時期、ペナントレースに入ってからでは聞けない、あるいは見られない、選手たちの素顔に接することが出来、ここでの個々の取材、例えばかなり突っ込んだプライベートに関する取材などが、後に何かが起きたときの貴重な資料となり、記者たちは、今の情報を日々、その日の紙面用に報じながら、一方、後々のために情報を貯えることも、このキャンプで地道に行うのですね。

実を言うと私自身は、申し訳ないことですが、野球というスポーツに関してそれほど熱意はなく、従って個人的な興味より、あくまで仕事としてとらえていましたが、後になって野球というスポーツと日本人の親密性を知らされることになります。

それは、ひと通りの担当記者時代を終え、デスクとして中に入り、その後、地方の福島支局を任されて赴任したときのことでした。

西も東も分からない未知の土地でどう有効な情報を集めるか。それに協力してくれたのが地元テレビ局に勤務するW氏でした。

スポーツの力とそれを伝えるスポーツ紙の役目

彼は、私たちがつくる「スポニチ福島版」に“もしコラムなどに必要なら”と自局の女子アナを紹介してくれたり、仕事が終わったときには、旨い酒を呑みながら、横に広い福島県は、会津、中通り、浜通り、と3つの違った県があるようなものだ、天気も違うし人柄も違う、などと県外者にはなかなか分かりづらいことを丁寧に教えてくれたりしていました。

そのW氏がある日、言いました。

〈サトーさん、スポーツ紙は偉大だね。いい紙面をつくって下さいよ〉

とんでもない。偉大だなどと言われることは少しもしていません。

・・・が、W氏はこう続けるのです。

〈ちょっと体を壊してね。入院生活を余儀なくされたとき、私はプロ野球の「横浜ベイスターズ(当時=現・横浜DeNAベイスターズ)ファンなのですが、毎朝、病院の売店でスポーツ紙を買い、ベイスターズの記事を読むことで、どれだけ勇気や元気、明日への力をもらったか分かりませんでしたよ〉

ウ~ンと私は考えさせられました。

それは別にスポーツ紙が偉大なのではなく、ファンの心をこれほどまでにつかむ球団が偉大なのですが、その一方、これまではそれほど深く考えていなかった、スポーツが持つ力、それを伝えてファンに届けるスポーツ紙の役割、というものを改めて考えさせられてしまったのです。

そういう出来事があった後、私の記事に対する姿勢が変わります。扱う記事の分量、大小などの問題ではない、どんな小さな記事でも、おろそかには出来ない、手を抜かずに精いっぱいの力で書く必要がある、と-。

なぜなら、誰かがその小さな記事を探し出して読み、明日の活力にしていることだってあるのですから・・・。

そうです。スポーツ紙って何だ、と問われたとき、そうだなァ、ある意味、弱ったものへの“応援歌”的な役割を背負っているかもしれないね、と答えられるかもしれません。

福島県勤めは3年で離れ、お世話になったW氏ともお別れとなりました。

あのころのさまざまな出来事・・・。今は本当に懐かしい思い出となってしまいました。

今年、W氏から頂戴した年賀状には、こんな文字がしたためられていました。

〈私は今も熱心に「横浜DeNAベイスターズ」を応援しています〉

相変わらず熱い人です。
プロフィール

佐藤 彰雄

Author:佐藤 彰雄
◆生年月日 
1944年(昭19)8月生まれ
◆出身 
神奈川県
◆プロフィール
スポーツニッポン新聞社在職中は運動部記者として大相撲、野球、ゴルフ、ボクシング、格闘技などを幅広く取材・執筆。
現在はフリーの立場でボクシングを中心に取材活動を続けている。
ゴルフのマスターズなど海外取材経験も豊富。

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
ランクアップにご協力下さい
↓↓↓↓クリック↓↓↓↓
QRコード
QR