大みそかには格闘技興行が似合う

本当に早いものですね~。

11月の声を聞くと、年賀状印刷の案内が届いたり、地元のデパートからは、お歳暮のカタログが届いたり、ああ、もうこんな季節になったのか、とつくづく、ときが過ぎ行く速さを感じます。

それも、ニュースが3日も経てば過去のものとなってしまうような、昨今の世の中の慌ただしさ、立ち止まっている時間もないようなせわしなさ、のせいなのでしょうか。

私自身は、この時期、残り少なくなった手帳の、やたら書き込まれた12月末の日程を眺めつつ、ああ、また今年の大みそかも現場に出なくてはなァ、とため息交じりとなります。

振り返ってみれば、大みそかの夜、自宅でノンビリと「紅白歌合戦」などを見なくなって(見られなくなって)から何年が経つことでしょうか。

「エエッ! 大みそかにやるの?」

最初に恨んだ人は、アントニオ猪木でした。

「そとにいるヤツ、みんな集まれ~ッ! 紅白歌合戦にひと泡吹かせようじゃないか!」の号令で2000年12月31日、大阪ドームで格闘技興行が開催されました。

いかにも猪木らしく、総合格闘家とプロレスラーが、垣根を外してゴチャマゼとなったおもちゃ箱。観客も何か何だか分からずに・・・しかし、カウントダウンの興奮も手伝って、やたら盛り上がっていましたっけ・・・。

それが始まりです。翌01年には、周辺を整備して「K-1軍vs猪木軍」の抗争をテーマとして行われ、それをTBSテレビが全国ネット放映でサポートします。

今年の「紅白・・・」は面白かったですか?

以降、12月31日の格闘技興行は定着化、民放テレビ各局の視聴率戦争も勃発。“打倒・紅白!”の旗印のもと、グングンとエスカレートしていきました。

・・・となると元日付のスポーツ新聞各紙の紙面づくりはどうなるか?

だいたい12月31日に格闘技興行が定着する以前は、大みそかの動きなどほとんど、文化・芸能関係に限られ、正月用のスポーツ面は企画もので早々とつくり上げていたものでしたが、これにより一転して“生もの”となります。

それがどういうことになるか。現場に出向いた私たち記者は、大みそか用の特別体制、早い締め切り時間に追われ、息つく間もない送稿で働きっ放しの状態となるのです。

戦い済んで日が暮れて・・・ではありませんが、クタクタになって終夜運転の電車で帰宅中、途中の駅でドドッと初詣の人たちが乗ってくるときの気持ちは、どうでしょうか、これはもう、どこに愚痴をこぼしていいか分からない、といった状態になりますねェ。

格闘技の全盛期が過ぎ、さあ、これで人並みの大みそかが過ごせるかな? と思ったら、今度はプロボクシングの興行が、それに代わりました。

その代表がWBA世界スーパーフェザー級王者・内山高志(35=ワタナベ)です。

内山はこのほど、今年も大みそかに東京・大田区総合体育館で11度目の防衛戦(相手は未定)を行うことが決まり、これで11年のV4戦から5年連続の大みそかの試合となります。

現段階では、WBO世界スーパーフライ級王者・井上尚弥(22=大橋)も12月29日に東京・有明コロシアムて初防衛戦を行うことが決まり、9月に初防衛に成功したWBA世界フライ級王者・井岡一翔(26=井岡)も、恒例化している大みそかの試合に一枚かんできそうです。

まあ、翌日に新年を控えた大みそかという特別の日に何かをやってみようか、という発想が最初にあり、ダメだったらやめればいいだろ、の開き直りもあり、その結果、大みそかは格闘技が似合う、という新しい発見をアントニオ猪木が生み出しました。

結果、私はこれで00年から実に16年間も「紅白歌合戦」を見ていない(恐ろしい!)ことになりますが、まあ、それはそれで仕方のないことです。
スポンサーサイト

力道山が野望を抱いた日

昔のことが懐かしく思い出されます。

小学生だった1950年代、私の週末夕の“お楽しみ”は、近くのお医者さんに家におジャマすることでした。

1953年(昭28)に本放送が開始されたテレビですが、そのころ、一般家庭へのテレビの普及率は、まだまだ低く、お医者さんの家にはあったテレビで、近所の顔なじみが集まって観る番組は「プロレス」なのでした。

そうそう、そうだったよなァ、と覚えている方々も多いのではないか、と思います。

日本テレビが放送した「三菱ダイヤモンドアワー」のプロレス中継は、1954年(昭29)2月19日、日本プロレス協会の旗揚げ興行として行われた「力道山・木村政彦組vsシャープ兄弟」戦が第1弾。最後は力道山の怒りの空手チョップが炸裂するこのカードが、国民を熱狂させたことは、いまさら説明の必要もないことでしょう。

このときの模様が「20世紀~100年物語」(毎日新聞社刊)に、こう記述されています。

〈1954(昭29)年2月19日、この日、東京・蔵前国技館は異様な雰囲気に包まれていた。爆発的な人気となったプロレスリング、その3日間興行「力道山、木村政彦対シャープ兄弟」NWA世界タッグ・チャンピオン選手権試合が、今まさに行われようとしていたからである〉

テレビとともに歩んだプロレス

そして、こう続けます。

〈この試合、NHKが第1日を、日本テレビが3日間連続して中継放送し、東京・有楽町の日本劇場前に設置された27インチの街頭テレビの画面には1万人近くがくぎ付けになった。(略)〉

その街頭テレビに関しては-。

〈街頭テレビは、一般の人がテレビというものをほとんど知らなかった1953年に、テレビジョンの本放送開始と同時に登場した。その数278台。当時、テレビのある家庭は、日本中でわずか3500世帯だった。(略)〉

娯楽の少なかったこの時代、こうした熱狂的シーンを演出した「日本プロレスリング協会」は、1953年のこの夏の時期、7月30日に大相撲からプロレス界に転身した力道山が設立しています。

力道山が柔道家の木村政彦とのタッグでシャープ兄弟を迎撃し蹴散らす展開。草創期のテレビがまだ未知数の、このプロレスというジャンルを取り上げた冒険。プロレスとテレビのドッキングは、まさに命運を共にする仲だったことでしょう。

力道山の日本プロレス協会は、やがてタッグを組んだ力道山と木村の仲たがいから、観る側を戦慄させたあの対決(1954年12月22日)を生み、さらに国民を熱狂させる力道山vs“鉄人”ルー・テーズのタイトルマッチという黄金カードでプロレスを軌道に乗せて行きました。

力道山以後、ジャイアント馬場の全日本プロレス、アントニオ猪木の新日本プロレス、とプロレス界は分裂し、離合集散を繰り返し、さらには、立ち技打撃系のK-1、総合格闘技のPRIDE、などのリアルファイト人気に押される時期もあり、今、あまり元気がありません。

例えば、力道山の時代のプロレス人気が、戦争で米国に負けたという劣等感に支配されていた日本人のうっぷんを晴らすもの、であったように、あるいは大仁田厚の“邪道魂”が既成の打破を目指すように、世の中の対立構図をリングの中に持ち込んで観る側をスカッとさせる要素がプロレスには必要のようです。

力道山によって、日本のプロレスの母体が創られた日、を思い浮かべて、ふと昔をしのんでみましたが・・・。

大みそかの格闘技興行・考

毎年、年の瀬になると、浮かんでくるのが「アントニオ猪木の顔」です。

「紅白歌合戦にひと泡吹かせようじゃないか。外に出ているヤツ、みんな集まれ~ッ!」

大みそかの格闘技興行は、赤マフラーのこの人-“燃える闘魂”が突然、こう叫んで始まったのです。

00年12月31日の大阪ドーム-。

あの、しっちゃかめっちゃかぶり、はまだ、記憶の片隅に残っています。

あれはいったい何だったのか? 総合格闘家とプロレスラーが垣根を外し、ごちゃまぜのおもちゃ箱をひっくり返した状態。見せるほうも観(み)るほうも、ただ、大みそかという特別の日、カウントダウン、という興奮だけがあり、何が何だか分からずに盛り上がり、何が何だか分からずに終わり、観客は皆、妙な満足感に包まれて初日の出に向かったものでした。

しかし・・・怖いものです。これが火をつけました。

翌01年から民放テレビ各局が、全国ネット放送を引っさげて、大みそかの格闘技イベントに本格的に取り組みます。一時はTBSテレビ、フジテレビ、日本テレビの3局がしのぎを削り合い、紅白歌合戦に迫る視聴率争いを繰り広げたのですから、巨大風車に挑んだ猪木“ドン・キホーテ”の夢想は、ひょっとしたら夢想ではないかも・・・に変わってくるほどでした。

猪木の〈とにかくやってみようじゃないか〉という決断。〈ダメならゴメンナサイだ〉という開き直り。これには、凄さを感じたものでした。

が、一方、これにつき合わなければならないスポーツ新聞各紙の格闘技担当記者たちは“恨み節”でした。

「紅白・・・」vs格闘技の対立構図

「今年もやるのか?」が挨拶代わりの日々。何しろ彼ら(私もそうでしたが)は、00年から毎年、現場に出ずっぱりです。終了後は、終夜運転の電車に乗って元日午前様帰宅が恒例化ししまっては、オレたちは何と世間とズレてしまっているのか、との愚痴も出ようというものです。

イベント関係者が、目の色を変えて“打倒・紅白!”をぶち上げるたびに私たちは、記者仲間と「オイオイ、そういえばここ数年、紅白なんて見てないよなァ」と話し「たまにはノンビリと見ないと、どちらのイベントがいいか、なんて分からないよなァ」などの理屈も、焼け石に水! でした。

そうした格闘技の時代が終わり、担当記者たちはようやく、大みそかの仕事から解放されるぞ、紅白も見れるぞ、と世間並みの楽しみに胸躍らされた途端、格闘技全盛時代に我慢を強いられた老舗のプロボクシングが台頭してきました。

東の内山高志(ワタナベ)、西の井岡一翔(井岡)は、ここ数年、大みそか恒例となり、今年は12月30日も加わり、東西で2日間計8つの世界タイトルマッチが行われる盛況ぶりです。

猪木サンもまだ、頑張っていて「INOKI BOM-BA-YE 2014」(大みそか=東京・両国国技館)を開催するにき゜やかさです。

プロボクシングの大みそか興行に関して、評論家のジョー小泉氏は、ボクシング専門誌にこう記述しています。

〈1961年の大みそか、東洋太平洋ミドル級王者・海津文雄(笹崎)と日本ライト級王者・小阪照男(帝拳)の試合をフジテレビが午後9時半から同11時まで放送した。NHKの紅白歌合戦への対抗馬として黄金時代のボクシングが実験的に放送された。実験成功で翌年からも、大みそかファイトが開催された〉

とすると“打倒・紅白”に向けて最短距離に立つソフトは、昔からボクシングを含む格闘技にあるようです。

今年、30日東京体育館=フジテレビ、31日大田区総合体育館=テレビ東京、同日大阪・ボディメーカーコロシアム=TBSテレビ、と民放3局が、紅白にチャレンジする視聴率戦争は、どんな結果が出ることでしょうか。

とともにリングで戦う選手たちが、旧年から新年に伝えるメッセージも見逃せません。

ところでこの私、振り返ってみれば00年からもう15年連続、大みそかに現場! となります。

これってやはり異常? まあ、普通ではないようですよね。ああ・・・。

“戦慄のひざ小僧”の引退は寂しい

さて・・・米総合格闘技リング「UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)」の日本上陸「UFC FIGHT NIGHT JAPAN 2014」(9月20日=埼玉・さいたまスーパーアリーナ)はどうだったでしょうか。

会場のある「さいたま新都心」駅を降りて私が感じたものは、大混雑の中で久々に味わう、格闘技ファン独特の熱気でした。

“独特の”とは、熱い情熱を表に出さず、内に抑え込んだ熱気、とでもいいましょうか。格闘技ファンには、不思議にこういうものが漂いますね。

ほぼ満員と言っていい会場の雰囲気もなかなかのものでした。メジャーのリングが消えて久しい国内格闘技界にあって、ファンはやはり、この種の熱気に飢えているのかもしれません。

オープニング・マッチを含んだ全12試合中、日本人選手が10試合に登場する大サービスの大会でしたが、その結果も6勝4敗の勝ち越しとなり、試合終了後の会見では、ジョー・カーUFC国際戦略事業統括本部長が、2015年の日本開催を含むアジア戦略に力こぶを入れていました。

そうした明るい話題に包まれた日本開催にあって大きな衝撃は、あのヴァンダレイ・シウバ(38=ブラジル)の引退が明らかになったことでした。

UFC活況の裏で・・・

ウエルター級戦(5分3R)に出場した秋山成勲(39=チーム・クラウド)が、2年7カ月ぶりとなるこの復帰戦に判定勝ちし、試合後の会見で「今後は誰と戦いたいか?」との質問に「あこがれの選手ですから」とヴァンダレイ・シウバの名を挙げたとき、奇しくもシウバは、自身の公式ホームページで引退を表明していたのでした。

UFCとの確執が原因とみられ、シウバは「戦う望みを絶たれた。とても悲しい日だ」とコメント。それはシウバだけでなく、多くのファンにとっても悲しい出来事になってしまったのではないでしょうか。

思い出されますね。シウバが一躍、脚光を浴びたのは2001年3月25日に開催された「PRIDE-13」(さいたまスーパーアリーナ)でした。

それまでPRIDE6戦5勝1無効試合の無敗男が、グレイシー・ハンターで大ブレイクしていた絶好調の桜庭和志(当時31=高田道場)と激突することになったのです。

当時のシウバは、ほぼ無名の選手。名づけられた「戦慄のひざ小僧」が、打撃の強烈な破壊力をイメージさせ、世界の桜庭超えでその名を響かせようとのハングリーな野望があり、桜庭といえどピンチ! の予感が漂いました。

試合は壮絶なものとなりました。開始直後からシウバのパンチ、ひざ蹴りを容赦なく受けた桜庭が、血だるまとなり、1R1分38秒、レフェリーストップによるTKO負けとなったのです。

この試合の明暗は、PRIDEミドル級の主役の座を交代させ、桜庭がここから下降線をたどっていったのは、すべてシウバの打撃による、心身の戦意喪失にあったように思われました。ちなみに桜庭は、その後、シウバと2戦しており、計3戦全敗で歯が立たずとなっています。

・・・そのシウバの引退表明! 戦慄のひざ小僧の打撃戦は、常に流血が避けられない凄惨な結果をもたらしましたが、シウバ自身は「リスペクト出来ない相手とは戦えない。リスペクト出来るからこそ殴れるんだ」と、格闘家として真摯な姿勢を崩さない男でした。

その言葉が、今でも記憶に残っています。

先駆者の勇気を心に!

近づく9月20日の土曜日-。“聖地”さいたまスーパーアリーナが、格闘技ファンの熱気で包まれそうです。

そうです! 米総合格闘技リング「UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)」の日本上陸。「UFC JAPAN 2014」(大会の模様はWOWOWが9月20日午後2時30分から生中継)の開催ですね。

UFCの日本開催は、同リングを「ズッファ社」(ダナ・ホワイト代表)が運営するようになって以降、2012年の初開催から3年連続となります。

今回参戦する秋山成勲(39=ウエルター級戦)や五味隆典(35=ライト級戦)ら日本人ファイターが、格闘技興行を渇望する目の肥えた日本人ファンを、どれだけ納得させる戦いを見せられるか、注目されるところです。

ところで・・・日本での「UFC」興行というと、懐かしく思い出されるのが、1997年12月21日(神奈川・横浜アリーナ)の初開催でしょうか。

現在のズッファ社が運営する前、SEG社時代のUFCで、日本開催は「UFC-J」が運営しており、大会には安生洋二、桜庭和志の日本人ファイターが参戦。ヘビー級トーナメントに出場した、当時27歳、キングダムの精鋭・桜庭が、決勝でグレイシー柔術のM・コナンを電光石火の腕ひしぎ逆十字固めで下し、大金星となる優勝を成し遂げてしまったのです。

これも長い歴史の中の忘れられない出来事ですね。

なぜ恐怖のリングに向かったか?

歴史を彩る1ページ! を言うなら、大道塾の空手家・市原海樹(みのき)の名をないがしろには出来ません。

UFCの第1回大会は1993年11月、米コロラド州デンバーで開催されていますが、この金網に囲まれた8角形のリング(オクタゴン)での、バーリ・トゥード(ポルトガル語で“何でもあり”の意)ルールによる異種格闘技戦は、グレイシー柔術が企画、ホイス・グレイシーの実兄ホリオン・グレイシーがプロデュースしており、戦略通り、ホイスを優勝させています。

ちなみにこの年の4月、日本では立ち技打撃系のK-1が発足しています。

旗揚げ当初のUFCは、参戦する選手たちが、バーリ・トゥード・ルールの意味もよく飲み込めず、それこそ暴力と紙一重、ケンカさながらの激闘が展開されたといいます。

その第2回大会(1994年3月=米コロラド州デンバー)に日本人として初参戦したのが市原だったのです。

トーナメント1回戦の市原の相手は、よりによって第1回大会覇者のホイスとなり、グラウンドに持ち込まれた後、関節技を決められ、市原は悔しい1回戦敗退となりました。

・・・が、この勇敢なサムライに思うことは、試合の結果などではなく、この恐怖のリングになぜ、立ち向かったのか? ということです。

市原とオクタゴンを結ぶ“橋渡し役”となった作家の夢枕獏氏は、そのリポートの中でこう記述しています。

〈試合前の恐怖感が大きければ大きいほど、その領域に踏み込むための門は狭くなり、領域の頂は高みを増していく。人は他人によって選ばれるのではない。自らが自らを選ぶのである。市原はすでにそういう領域に足を踏み入れていた〉

読んでいて、まさに「鳥肌が立つ」ような、身を切る緊張感が漂いますね。

先駆者が志を高めるということは、こういう状況なのでしょう。

何ごともそうなのですが、未知の領域に初めて踏み込んだ先人の勇気・努力は、後を受け継ぐ者たちも、常に意識の中に入れておくべきものだと思います。

今回の9・20の日本興行でも、日本人ファイターたちは、市原魂を心に宿らせてファンを熱狂させてもらいたいものですね。
プロフィール

佐藤 彰雄

Author:佐藤 彰雄
◆生年月日 
1944年(昭19)8月生まれ
◆出身 
神奈川県
◆プロフィール
スポーツニッポン新聞社在職中は運動部記者として大相撲、野球、ゴルフ、ボクシング、格闘技などを幅広く取材・執筆。
現在はフリーの立場でボクシングを中心に取材活動を続けている。
ゴルフのマスターズなど海外取材経験も豊富。

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
ランクアップにご協力下さい
↓↓↓↓クリック↓↓↓↓
QRコード
QR