“邪道ワールド”最後の咆哮

この熱気! この興奮! 会場を揺るがす、オーニタッ、オーニタッ、オーニタッ、の連呼-。

さすがですネ~。この男は、一人でこれだけ熱狂をつくり上げてしまうのですから。

10月31日夜、東京・後楽園ホールで開催された元参議院議員でプロレスラー・大仁田厚(60)の引退試合です。

それより前の9月30日、大仁田から「もう最後だ。来てくれるだろ」と私に電話が入ったこともあり、足を運びました。

JR水道橋駅周辺から人出が多く、後楽園ホール1階のエレベーター前には、午後5時の開場を待ちわびて、すでに長蛇の列ができていました。オッ、盛況のようだな、の印象。会場に入り、控室を除くと大仁田は不在。どこに行ったのかな? と探すと、入り口のグッズ売り場の横にしゃがみ込み、即席のサイン会や記念撮影会を開いていました。

私が声をかけると、還暦用の赤い革ジャンを着た大仁田は、ニッコリ笑って「か~んばい!」と返して来ました。

周囲の騒音に完全に聞き取れず、ン? 「乾杯」? もう打ち上げの気持ちなのかな? などと思いましたが、これは「完売」でした。

パソコンの文字も「濁音」と「半濁音」の区別がつかず、こうした言葉は書くほうも苦慮してしまいますが、大仁田が口にした「か~んばい」は、半濁音の「乾杯」ではなく、間違いなく濁音の「完売」のほう。

つまり、指定席チケットが前売りの段階で完売。当日券は立ち見券を限定50枚で発売するのみ、という盛況(観衆2000超満員札止め=主催者発表)を「皆さんのおかげですね。ありがたいこと。本当にありがとう」と心から喜んでいる様子が、その顔からうかがえました。

試合は午後6時半から始まり、4試合を終えた後に「引退セレモニー」が始まりました。

後援会やスポンサー筋など関係者の名前が読み上げられ、それぞれがリングに上がり、大仁田のこれまでを称え、ねぎらいの言葉がかけられます。

最後のひと言・・・もう戻り道はない

マスコミ各社の番が来てスポニチは、現役の担当記者に続いて、思いもかけず、私の名前が読み上げられました。

〈長い間、大仁田番記者として活動されてきた・・・〉

まあ、私は確かに“番記者”として結構、密着していましたが、大仁田という人は、そういう気遣いというか、細かい配慮が出来る人なのですね。私は、ちょっとこみあげてしまい、もうOB記者の身、そのつもりはなかったのですが、お言葉に甘えます、と図々しくリングに上がってしまいました。

そして、このイベントも最後を迎え、メーンの3対3、6人タッグのストリートファイト・デスマッチが開始されます。

試合はいきなり、藤田和之が大仁田をつかまえて乱闘を開始。わずか5分で大仁田は流血させられる過激さ。後は6人が入り乱れてのノールール、しっちゃかめっちゃかのデスマッチは、いつも通りです。

最後は、劣勢を強いられ大仁田が、赤と青の毒霧噴射で立ち直り、NOSAWA論外にサンダーファイヤー・パワーポムを6連発、粘る論外をねじ伏せました。

大仁田の代名詞だったサンダーファイヤー・パワーボムも、ひざの故障が悪化した近年は、相手を持ち上げるのもやっとの状態でしたが、この日は論外を高々と持ち上げ、ファンの、まだやれるぞ! の声援を浴びていました。

大仁田の真骨頂は、試合を終えたときからです。ここからが長い-。

オイ、オイ、オイ、オイ! みんな、こんなウソつきのオレを、こんな弱いオレを、こんなに応援してくれてありがとう! オレがただ一つ、言えることは、絶対にあきらめないこと、夢をあきらめないことだ! と絶叫。“涙のカリスマ”全開で開場を埋めた“信者”たちの大声援を浴びました。

熱狂の“大仁田劇場”-。

この熱気が凄いですね。お決まりのファイヤー! で締めた大仁田は、控室で報道陣に囲まれて言いました。

〈最後のひと言を言うとしたら・・・オレは死ぬまでプロレスラーです。でも、もう戻り道はない〉

この日は、珍しく母親の松原巾江さんが会場に足を運び、試合で大流血の大仁田にも目を背けることなく、最後まで息子がやってきたことを冷静に見届けていました。

その姿が、妙に心に残り、印象的でした。
スポンサーサイト

涙のカリスマの“還暦引退”に思う

大仁田厚-。

1957年(昭32)10月25日生まれ。長崎県長崎市生まれの60歳。プロレスラーで元参議院議員。

「電流爆破」という危険な戦いを背負い、常に巨大な体制に単身挑む悲壮な姿をプロレスで表現してきた“涙のカリスマ”が、いよいよ、自身の“劇場”に幕を下ろすときが来ました。

10月31日夜、東京・後楽園ホールで開催される「大仁田厚ファイナル~さよなら大仁田 さよなら電流爆破」の興行。この一戦で大仁田は引退、1974年4月のデビュー戦(全日本プロレス)以来、43年間にわたったプロレス人生に終止符を打つことになりました。

大仁田から、ボクも今年の秋(10月25日)に還暦を迎えます、ついてはこれまでやってきたことに区切りをつけたい、という旨の電話が入ってきたのは、今年を迎えてすぐ、1月下旬のことでした。

まあ、大仁田の引退に関しては、これまでさんざん〈引退宣言→復帰〉を繰り返しており、にわかには信じ難いところもありましたが、今度はホントにホント、ということで、以降の引退ロードを経て、ついに“その日”が来てしまいました。

かつての引退→撤回の繰り返しに対してアンチは、まだやってるのかヨ、ウソつき! などと罵声を浴びせます。しかし、この男のたくましさは、自ら“ミスター・ライアー(liar=ウソつき)”などと自虐的に名乗って開き直り、それもまた、ウリにしてしまうところにあります。

今回の通算7度目になる引退宣言は、いまのところ、どうやらまだホントのようですが、またくつがえされのるのかどうかは、そのときになってみなければ分かりません。私は、そんなことは別にどうでもいいことで、プロレスの世界では、それもアリ、と思っています。

私が初めて大仁田と接触したのは、1990年代の半ば頃だったと思います。当時、大仁田が設立したプロレス団体「FMW」の事務所をブラリとのぞいたところ、大仁田がいて「スポニチさん、ちょっと話そうか」ということになり、雑談したことが始まりでした。

全身にのしかかる長年の酷使

大仁田は、地元・長崎の中学を卒業後、進んだ高校を途中でやめて日本一周徒歩旅行の旅に出ました。長崎を出発する際、自ら新聞社と接触、その様子が記事になったのですが、その新聞社が「スポーツニッポン新聞西部本社」だったというのですから、大仁田にとって「スポニチ」の名は、そのときから頭の中にインプットされていたのかもしれません。

へェ、そうなんだ、とちょっと感動的になったのは、あるときの東京・後楽園ホールでの興行でした。

リング上ではいつも通り、大仁田が過激なパフォーマンスを演じており、リング下には、それに熱い視線を送る車椅子の少年がいました。

大仁田の“邪道”イズムは、理不尽な体制を打倒すべく、一寸の虫にも五分の魂! の戦い。つまり“弱者へのエール”です。

こうした戦いが終わり、車椅子の少年は、大仁田に勇気をもらい、あるいは、自分が大仁田になって帰路についたかもしれません。

かつて映画の任侠路線が華やかだったころ、映画館を出てきた人々は皆、死んでもらいます、と堪忍袋の緒を切った高倉健になっていましたっけ。大仁田がやっていたものは、それによく似ていました。それが私を惹きつけました。

リングの外では、1999年4月、41歳で駿台学園高校(東京・北区)の定時制(第3学年編入)に入学。この“電流爆破高校生”は、卒業後の2000年7月、新日本プロレスの横浜アリーナ大会でついに“体制の象徴”長州力と電流爆破マッチで激突するに至りました。大仁田ワールドのピーク。

そして2001年7月、参院選に当選-。

大仁田の現状は?。

階段を降りるとき、両ひざが痛むのかスムーズに足が運べません。本当につらそう。得意技だった「サンダーファイヤー・パワーボム」が、ひざの踏ん張りか聞かずに次第に高く上げられなくなったのは、ここ最近のことではありませんが、全身の至るとろに過激なファイトによるしわ寄せが来ていることは確かです。

何ごとにも永遠はなく、長年の酷使がズシリと重い体。涙のカリスマの還暦引退は、すべてに妥当! です。復帰はもうなし、にしてほしいと思います。

大みそかには格闘技興行が似合う

本当に早いものですね~。

11月の声を聞くと、年賀状印刷の案内が届いたり、地元のデパートからは、お歳暮のカタログが届いたり、ああ、もうこんな季節になったのか、とつくづく、ときが過ぎ行く速さを感じます。

それも、ニュースが3日も経てば過去のものとなってしまうような、昨今の世の中の慌ただしさ、立ち止まっている時間もないようなせわしなさ、のせいなのでしょうか。

私自身は、この時期、残り少なくなった手帳の、やたら書き込まれた12月末の日程を眺めつつ、ああ、また今年の大みそかも現場に出なくてはなァ、とため息交じりとなります。

振り返ってみれば、大みそかの夜、自宅でノンビリと「紅白歌合戦」などを見なくなって(見られなくなって)から何年が経つことでしょうか。

「エエッ! 大みそかにやるの?」

最初に恨んだ人は、アントニオ猪木でした。

「そとにいるヤツ、みんな集まれ~ッ! 紅白歌合戦にひと泡吹かせようじゃないか!」の号令で2000年12月31日、大阪ドームで格闘技興行が開催されました。

いかにも猪木らしく、総合格闘家とプロレスラーが、垣根を外してゴチャマゼとなったおもちゃ箱。観客も何か何だか分からずに・・・しかし、カウントダウンの興奮も手伝って、やたら盛り上がっていましたっけ・・・。

それが始まりです。翌01年には、周辺を整備して「K-1軍vs猪木軍」の抗争をテーマとして行われ、それをTBSテレビが全国ネット放映でサポートします。

今年の「紅白・・・」は面白かったですか?

以降、12月31日の格闘技興行は定着化、民放テレビ各局の視聴率戦争も勃発。“打倒・紅白!”の旗印のもと、グングンとエスカレートしていきました。

・・・となると元日付のスポーツ新聞各紙の紙面づくりはどうなるか?

だいたい12月31日に格闘技興行が定着する以前は、大みそかの動きなどほとんど、文化・芸能関係に限られ、正月用のスポーツ面は企画もので早々とつくり上げていたものでしたが、これにより一転して“生もの”となります。

それがどういうことになるか。現場に出向いた私たち記者は、大みそか用の特別体制、早い締め切り時間に追われ、息つく間もない送稿で働きっ放しの状態となるのです。

戦い済んで日が暮れて・・・ではありませんが、クタクタになって終夜運転の電車で帰宅中、途中の駅でドドッと初詣の人たちが乗ってくるときの気持ちは、どうでしょうか、これはもう、どこに愚痴をこぼしていいか分からない、といった状態になりますねェ。

格闘技の全盛期が過ぎ、さあ、これで人並みの大みそかが過ごせるかな? と思ったら、今度はプロボクシングの興行が、それに代わりました。

その代表がWBA世界スーパーフェザー級王者・内山高志(35=ワタナベ)です。

内山はこのほど、今年も大みそかに東京・大田区総合体育館で11度目の防衛戦(相手は未定)を行うことが決まり、これで11年のV4戦から5年連続の大みそかの試合となります。

現段階では、WBO世界スーパーフライ級王者・井上尚弥(22=大橋)も12月29日に東京・有明コロシアムて初防衛戦を行うことが決まり、9月に初防衛に成功したWBA世界フライ級王者・井岡一翔(26=井岡)も、恒例化している大みそかの試合に一枚かんできそうです。

まあ、翌日に新年を控えた大みそかという特別の日に何かをやってみようか、という発想が最初にあり、ダメだったらやめればいいだろ、の開き直りもあり、その結果、大みそかは格闘技が似合う、という新しい発見をアントニオ猪木が生み出しました。

結果、私はこれで00年から実に16年間も「紅白歌合戦」を見ていない(恐ろしい!)ことになりますが、まあ、それはそれで仕方のないことです。

力道山が野望を抱いた日

昔のことが懐かしく思い出されます。

小学生だった1950年代、私の週末夕の“お楽しみ”は、近くのお医者さんに家におジャマすることでした。

1953年(昭28)に本放送が開始されたテレビですが、そのころ、一般家庭へのテレビの普及率は、まだまだ低く、お医者さんの家にはあったテレビで、近所の顔なじみが集まって観る番組は「プロレス」なのでした。

そうそう、そうだったよなァ、と覚えている方々も多いのではないか、と思います。

日本テレビが放送した「三菱ダイヤモンドアワー」のプロレス中継は、1954年(昭29)2月19日、日本プロレス協会の旗揚げ興行として行われた「力道山・木村政彦組vsシャープ兄弟」戦が第1弾。最後は力道山の怒りの空手チョップが炸裂するこのカードが、国民を熱狂させたことは、いまさら説明の必要もないことでしょう。

このときの模様が「20世紀~100年物語」(毎日新聞社刊)に、こう記述されています。

〈1954(昭29)年2月19日、この日、東京・蔵前国技館は異様な雰囲気に包まれていた。爆発的な人気となったプロレスリング、その3日間興行「力道山、木村政彦対シャープ兄弟」NWA世界タッグ・チャンピオン選手権試合が、今まさに行われようとしていたからである〉

テレビとともに歩んだプロレス

そして、こう続けます。

〈この試合、NHKが第1日を、日本テレビが3日間連続して中継放送し、東京・有楽町の日本劇場前に設置された27インチの街頭テレビの画面には1万人近くがくぎ付けになった。(略)〉

その街頭テレビに関しては-。

〈街頭テレビは、一般の人がテレビというものをほとんど知らなかった1953年に、テレビジョンの本放送開始と同時に登場した。その数278台。当時、テレビのある家庭は、日本中でわずか3500世帯だった。(略)〉

娯楽の少なかったこの時代、こうした熱狂的シーンを演出した「日本プロレスリング協会」は、1953年のこの夏の時期、7月30日に大相撲からプロレス界に転身した力道山が設立しています。

力道山が柔道家の木村政彦とのタッグでシャープ兄弟を迎撃し蹴散らす展開。草創期のテレビがまだ未知数の、このプロレスというジャンルを取り上げた冒険。プロレスとテレビのドッキングは、まさに命運を共にする仲だったことでしょう。

力道山の日本プロレス協会は、やがてタッグを組んだ力道山と木村の仲たがいから、観る側を戦慄させたあの対決(1954年12月22日)を生み、さらに国民を熱狂させる力道山vs“鉄人”ルー・テーズのタイトルマッチという黄金カードでプロレスを軌道に乗せて行きました。

力道山以後、ジャイアント馬場の全日本プロレス、アントニオ猪木の新日本プロレス、とプロレス界は分裂し、離合集散を繰り返し、さらには、立ち技打撃系のK-1、総合格闘技のPRIDE、などのリアルファイト人気に押される時期もあり、今、あまり元気がありません。

例えば、力道山の時代のプロレス人気が、戦争で米国に負けたという劣等感に支配されていた日本人のうっぷんを晴らすもの、であったように、あるいは大仁田厚の“邪道魂”が既成の打破を目指すように、世の中の対立構図をリングの中に持ち込んで観る側をスカッとさせる要素がプロレスには必要のようです。

力道山によって、日本のプロレスの母体が創られた日、を思い浮かべて、ふと昔をしのんでみましたが・・・。

大みそかの格闘技興行・考

毎年、年の瀬になると、浮かんでくるのが「アントニオ猪木の顔」です。

「紅白歌合戦にひと泡吹かせようじゃないか。外に出ているヤツ、みんな集まれ~ッ!」

大みそかの格闘技興行は、赤マフラーのこの人-“燃える闘魂”が突然、こう叫んで始まったのです。

00年12月31日の大阪ドーム-。

あの、しっちゃかめっちゃかぶり、はまだ、記憶の片隅に残っています。

あれはいったい何だったのか? 総合格闘家とプロレスラーが垣根を外し、ごちゃまぜのおもちゃ箱をひっくり返した状態。見せるほうも観(み)るほうも、ただ、大みそかという特別の日、カウントダウン、という興奮だけがあり、何が何だか分からずに盛り上がり、何が何だか分からずに終わり、観客は皆、妙な満足感に包まれて初日の出に向かったものでした。

しかし・・・怖いものです。これが火をつけました。

翌01年から民放テレビ各局が、全国ネット放送を引っさげて、大みそかの格闘技イベントに本格的に取り組みます。一時はTBSテレビ、フジテレビ、日本テレビの3局がしのぎを削り合い、紅白歌合戦に迫る視聴率争いを繰り広げたのですから、巨大風車に挑んだ猪木“ドン・キホーテ”の夢想は、ひょっとしたら夢想ではないかも・・・に変わってくるほどでした。

猪木の〈とにかくやってみようじゃないか〉という決断。〈ダメならゴメンナサイだ〉という開き直り。これには、凄さを感じたものでした。

が、一方、これにつき合わなければならないスポーツ新聞各紙の格闘技担当記者たちは“恨み節”でした。

「紅白・・・」vs格闘技の対立構図

「今年もやるのか?」が挨拶代わりの日々。何しろ彼ら(私もそうでしたが)は、00年から毎年、現場に出ずっぱりです。終了後は、終夜運転の電車に乗って元日午前様帰宅が恒例化ししまっては、オレたちは何と世間とズレてしまっているのか、との愚痴も出ようというものです。

イベント関係者が、目の色を変えて“打倒・紅白!”をぶち上げるたびに私たちは、記者仲間と「オイオイ、そういえばここ数年、紅白なんて見てないよなァ」と話し「たまにはノンビリと見ないと、どちらのイベントがいいか、なんて分からないよなァ」などの理屈も、焼け石に水! でした。

そうした格闘技の時代が終わり、担当記者たちはようやく、大みそかの仕事から解放されるぞ、紅白も見れるぞ、と世間並みの楽しみに胸躍らされた途端、格闘技全盛時代に我慢を強いられた老舗のプロボクシングが台頭してきました。

東の内山高志(ワタナベ)、西の井岡一翔(井岡)は、ここ数年、大みそか恒例となり、今年は12月30日も加わり、東西で2日間計8つの世界タイトルマッチが行われる盛況ぶりです。

猪木サンもまだ、頑張っていて「INOKI BOM-BA-YE 2014」(大みそか=東京・両国国技館)を開催するにき゜やかさです。

プロボクシングの大みそか興行に関して、評論家のジョー小泉氏は、ボクシング専門誌にこう記述しています。

〈1961年の大みそか、東洋太平洋ミドル級王者・海津文雄(笹崎)と日本ライト級王者・小阪照男(帝拳)の試合をフジテレビが午後9時半から同11時まで放送した。NHKの紅白歌合戦への対抗馬として黄金時代のボクシングが実験的に放送された。実験成功で翌年からも、大みそかファイトが開催された〉

とすると“打倒・紅白”に向けて最短距離に立つソフトは、昔からボクシングを含む格闘技にあるようです。

今年、30日東京体育館=フジテレビ、31日大田区総合体育館=テレビ東京、同日大阪・ボディメーカーコロシアム=TBSテレビ、と民放3局が、紅白にチャレンジする視聴率戦争は、どんな結果が出ることでしょうか。

とともにリングで戦う選手たちが、旧年から新年に伝えるメッセージも見逃せません。

ところでこの私、振り返ってみれば00年からもう15年連続、大みそかに現場! となります。

これってやはり異常? まあ、普通ではないようですよね。ああ・・・。
プロフィール

佐藤 彰雄

Author:佐藤 彰雄
◆生年月日 
1944年(昭19)8月生まれ
◆出身 
神奈川県
◆プロフィール
スポーツニッポン新聞社在職中は運動部記者として大相撲、野球、ゴルフ、ボクシング、格闘技などを幅広く取材・執筆。
現在はフリーの立場でボクシングを中心に取材活動を続けている。
ゴルフのマスターズなど海外取材経験も豊富。

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
ランクアップにご協力下さい
↓↓↓↓クリック↓↓↓↓
QRコード
QR