映画「十二人の怒れる男」に見る審議の重さ

無作為に選ばれた一般の国民(市民=20歳以上の有権者)が裁判官として刑事裁判に参加する「裁判員制度」が、先月の5月21日で施行からまる9年を迎え、10年目をスタートさせました。

2004年(平16)5月21日に「裁判員が参加する刑事裁判に関する法律」が成立し、5年後の2009年(平21)5月21日に制度がスタートした当時は、通知が舞い込んだときはどうしようか、そのときは覚悟しなくちゃな、など真剣に考えたことが思い出されます。

・・・といっても、この欄で日本の裁判員制度がどうの、などと堅苦しいことを書く気はありません。このテーマに触れるとき、私が決まって思い出してしまうのが、社会派シドニー・ルメット監督の米映画「十二人の怒れる男」(1957年製作・公開)なのです。

公開当時、まだ10代の中学生だった私が、この映画を劇場で観(み)たわけではありませんが、後年になってテレビで放映されたのを観たとき、ほとんど有罪は免れないだろう、という父親殺しの不良少年を、最後は無罪へと導く12人の陪審員たちの白熱の論議を描いた異色の法廷劇にときを忘れて感動、私の中で忘れ難い名作となりました。

映画というのは面白いですね。昨今、テレビドラマを含めて「法廷もの」は多くなり、検察官と弁護士の手に汗握るやりとりの末の逆転無罪劇などが人気を得ていますが、この「12人の怒れる男」は、法廷での攻防を表舞台としておらず、ひと通りの審議を終えた後、陪審員たちが評決を下すべく、意見を調整するために戻った裏舞台の控室を表舞台にしています。

10年目を迎えた日本の「裁判員制度」は?

無作為に選ばれ、名前も伏せられ、1番から12番までの番号が付けられた12人の市民が、全員一致でなければならない評決のために議論を開始します。

被告人はスラムに住む18歳の少年。「父親をナイフで刺し殺した」とする殺人事件です。有罪なら死刑は免れない情勢-。

法廷の場で誰が見ても有罪だと思われ、陪審員たちも、早く終わらせてこの厄介な場から離れようぜ、という中、8番陪審員(ヘンリー・フォンダ)が、わずかな疑問点によりただ一人、有罪に反対を唱えたことから、この映画の本格的なストーリーが始まります。

有罪か無罪か-。12人の陪審員たちの白熱のディスカッション。それは次第に陪審員個々の偏見、自分の見方は先入観に左右されていないか、差別的な感情はないか、などにも及び、最後は〈疑わしきは罰せず〉の無罪にたどり着きます。

「12人の怒れる男」では、1番陪審員(マーティン・バルサム)が司会進行、というか意見のまとめ役を演じていましたが、日本の裁判員制度は、1件につき、裁判官3人と裁判員6人の合議制とされ、評決は裁判官と裁判員の双方を含む過半数によるもの、と資料にありました。

映画の中で展開される、陪審員だけの、あるときはケンカ腰の意見の主張、ぶつけ合い・・・無作為に集められた、見ず知らずの12人が、一人一人が納得できるまで徹底して議論し尽くし、一つの結論を出すことこそが民主主義の原点、と、この「12人の怒れる男」は〈民主主義賛歌劇〉とも言われています。

日本の裁判員制度での審議の場は、どうなのでしょうか? もし、自分の場合だったら、あれほど(映画の中ほど)徹底して意見を主張できるだろうか、とも思ってしまうし、あるいは手慣れた裁判官主導に任せてしまうかもなァ、とも思ってしまいます。

映画の中の18歳の少年は、有罪濃厚の流れの中で陪審員たちが有罪の評決を下せば、冤罪による死刑となってしまうわけだし、こうした状況はやはり、怖い、身が引き締まる、というのが、偽りのないところでしょうか。
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「大川小の悲劇」に思う

新聞やテレビが大きく報じた出来事~「自然災害への対応の仕方」~により、この問題が、これまでより、さらに詳細に具体的に求められる世の中になったことを、改めて考えさせられました。

2011年(平23)3月11日に発生した東日本大震災の津波で宮城県石巻市立大川小学校の児童74人が死亡(70人)行方不明(4人)となり、10人の教職員も犠牲となった“大川小の悲劇”です。

犠牲となった児童23人の遺族が、市と宮城県に損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が4月26日、仙台高裁で言い渡され、2016年10月の1審(仙台地裁)判決は、津波襲来の約7分前に市広報車が避難を呼びかけた時点で教員は、具体的な津波の危険を予知できた、と〈個の判断ミス〉に言及しましたが、控訴審での判決は、学校側や行政の防災体制に不備があった、と〈全体の過失〉を指摘するものに大きく方向転換されました。

「3・11」以降、防災への意識は高まり、さらに近い将来の発生が予測される大規模地震への備えの重要性は、私たちの周辺でも、行政が定期的に各家庭に配布する、居住エリアの防災マップ、津波ハザードマップ、などに表れ、意識の向上を呼びかけています。

そうした資料によると、例えば私が住む藤沢市(神奈川県)が、マグニチュード7・9の南関東地震に見舞われた場合、津波の第一波到着時間は10分以内、最大波到着時間は23分、と記されています。

事前防災の怠りが・・・

さらに防災マップには、避難施設一覧表、水害避難所、津波避難ビル一覧表、などが記されています。

随時、行われる居住者の防災のための懇談会などに招かれる市の担当者は、津波の場合は、ただひたすら逃げるしかない、何が何でも逃げて下さい、と繰り返します。

どこにどう逃げるかは、個の判断ですが、津波ハザードマップに塗りつぶされた危険区域は分かっても、では実際、どこまで逃げたら安全か、という目安は記されていません。

もちろん、津波の状況によってそれは異なり、どこからどう襲来するかの予測も難しく、そこまで要求することは無理、かもしれず、この種の予知の難しさを背景に、市にしても“そこまでは・・・”が正直なところかもしれませんが、しかし、今回の出来事に対する司法の判断は、ある意味、学校側や行政にそこまでを求めているのです。

つまり、学校は北上川と約200メートルの距離にあり、津波が堤防を破壊したときの被害を予見することは十分可能だった、とし、それをもとにした危機管理マニュアルの改訂などを怠った、避難場所が定められていれば回避できた、とバラバラの“個の判断”より、統制の取れた“全体(組織的)の誘導”が欠けていた、ことを指摘しているのです。

そうした今回の判決は、県側、市側にとって、厳しいものになったことと思います。

が、結局、自然災害への備えというものは、起きたときに何かできるか、という、混乱の中でも行えるような日ごろの訓練が欠かせないのだな、とつくづく思います。

そして、こうした場合、個の判断も、全体の誘導も、両面とも必要だろうし、、マニュアルだけで固めてしまっては? とも思います。

が、言えることは、みくびっていては痛い目に遭う、ということなのでしょうね。

増えるユーチューバーのお騒がせ事件

動画共有サービスの「YouTube(ユーチューブ」(本社=米カリフォルニア州サンブルーノ)に投稿される動画が、次第に過激なものへと変わってきたのは、とにかく視聴する側を驚かせ、再生回数の多さが自己顕示欲を満たし、またそれが、収入にも反映されるようになってからでしょうか。

ア然茫然(ぼうぜん)! というか、開いた口が塞がらない出来事は、大型バイクによる「239キロ爆走」でした。

3月23日、千葉県警が木更津市と川崎市を結ぶ「東京湾アクアライン」(法定速度時速80キロ)でバイクを時速239キロで運転した男性を道交法違反(速度超過)の疑いで書類送検した、との新聞報道がありました。

千葉県警は、スピード違反の摘発では、二輪車では過去最高の速度、としましたが、それはそうでしょう、バイクでの200キロ超えが人の体にどれだけの圧力をかけるのか分かりませんが、まあ、二輪のレースではあるまいに、普通では考えられない行為でしょう。

新聞報道によると、男はハンドルに小型カメラを固定、速度計を写した動画を「最高速チャレンジ編」(動画での速度計は279キロを指していたとのことです)としてユーチューブに投稿した、とのことでした。

この動画を見た一般市民が、警察に通報したことで出来事が発覚、千葉県警が米国のユーチューブ本社に問い合わせるなどして男をつき止めた、という経緯が明らかにされました。

過激化する投稿動画

男は、これまで投稿していたバイクのツーリング動画などコメントが少なかったために「高評価を得てコメントを増やし、もっと(広告)収入を得たかった」と語ったそうです。

まあ、しかし、取り調べた千葉県警が「バカげている」としたように、たかだか動画投稿サイトでの評価を高め、コメントを多数得るために命と引き換えの行為に及ぶなど、人の意識や価値観は、時代とともに変わるにしても、何やらヘンな方向に進んでいるような気がしてならないですね。

ユーチューブから人気が出たものの一つにピコ太郎の「PPAP」がありますね。一時の大ヒットから今は懐かしいものになってしまいましたが、こうしたレベルで視聴者が楽しみ、再生回数が増えるところにとどまっているなら、何の問題もありません。

が、しかし、投稿の内容は次第に過激なもの、奇をてらうもの、イタズラでは済まされないもの、へと度合いを超えていきます。

思い浮かぶものだけでも、万引きの場面を写したものや、男が警察官の前で白い粉の入ったビニール袋(実際は砂糖)を落とし、逃げる男と追う警官という、イタズラを超えた行為、また神奈川・横須賀の公園で自作の火炎放射器で炎を噴射する様子を撮影した動画の投稿などなど・・・。

これらの行為は、ユーチューブの中では、ヒーロー&ヒロインになれる、という単純な発想が底にあるのでしょうか。

それだけ、今の時代、自分を自分として感じることが出来る、アイデンティティーを主張する場が失われている、ということも言え、それがまた、これらの行為に拍車をかけているのかもしれません。

もともとは皆が楽しもうとするもの。社会への不満が、ユーチューブのような場に歪んでぶつけられることは、避けたいものと思いますね。

新しい事故原因の形態~“ながらスマホ”

3月20日朝-。

朝食を摂りながら新聞に目を通していると、社会面にちょっと目を引く記事が掲載されていました。

車を運転中の“ながらスマホ”で死傷事故を起こした被告に対し、この事件を扱った地裁が、検察側の求刑を上回る判決を言い渡した、という出来事です。

ヘェ~、こういうの、あんまりないよね、というのが最初の感想。だいたい判決は、検察側の求刑を下回るものです。とともにそれだけ、これまでは〈マナー違反〉として指摘されていた“ながらスマホ”が、蔓延する社会にあって、もはや悪質な犯罪として受け止められ、厳しく警鐘を鳴らす判決だなァ、とも感じられました。

出来事は2017年11月、名神高速道路の下り車線で起きています。スマートフォンを見ながらトラックを運転していて前方の乗用車に追突するなど多重事故を起こし、5人を死傷させたという事件です。

被告人に対して検察側は、自動車運転処罰法違反(過失致死傷)で「禁固2年」を求刑していましたが、大津地裁は実にそれを上回る「禁固2年8月」の実刑判決を言い渡しました。

新聞記事によると同地裁・今井輝幸裁判官は「検察側の求刑は、従来の過失の類型に当てはめて過小評価している」と述べ「運転手が(スマートフォンの)小さな画面に意識を集中させてしまう」として、この種の事故を「新しい事故原因の形態に当たる」とし昨今、社会に蔓延する“ながらスマホ”を厳しく糾弾する姿勢をその言葉に感じました。

刑法が規定する刑の種類のうち、禁固は自由を拘束される刑に当たり、懲役同様に刑務所に収監されますが、懲役に科される作業はありません。

蔓延する危険に警鐘を鳴らす判決

また、禁固は主に「過失運転致死傷」や「業務上過失致死傷」などに科せられ、もちろん状況によりますが、多くの場合、執行を猶予されることが、過去の例としてあります。

その意味で、求刑を上回る量刑を下した判決、また、被告人が目的地までの時間を調べるために地図アプリを開いた点について「スマホ操作に緊急性はなく、非難の程度は相当高い」と今井裁判官は決めつけ、執行猶予をつけなかった判決、などに認識を含めた事の重さを感じました。

実際、さまざまな注意、警告がなされる中、車を運転しながらは論外として、自転車を運転しながら、あるいは歩きながら、などの“ながらスマホ”は後を絶たないですね。

私自身、歩行中や自転車に乗っているときなどに“あわや”の危険は結構、経験していますが、最近は特に自転車の“ながら運転”に目に余るものを感じます。

主に男女高校生に多い暴走自転車には、まさに周りが見えない、自分だけの道、といった驕りがありますね。彼や彼女は、自分で間一髪、よけているという自信があるのでしょうが、実は衝突の危機を感じた側が先によけているということが見えないのでしょうか。

今年2月に起きたひどい事故は、新聞紙面でその状況を知り、ア然とさせられます。

神奈川県麻生区の女子大生が起こした重過失致死容疑は、事件を扱った神奈川県警麻生署によると、女子大生は左手にスマホ、右手に飲み物を持ちながらハンドルを支え、左耳にイヤホンをしていたそうです。スマホをポケットにしまおうと下を向いた瞬間の衝突、死亡事故・・・。

もはや“ながらスマホ”の事故は、ついうっかりでは済まされなくなっています。この例は自転車の事故ですが、坂道でスビート出し過ぎた小学生が高齢の女性に衝突、事件を扱った地裁は、小学生の親に9500万円の賠償を命じているのですから。

厳しい判決が下された今回の例、さまざまな危険をはらむ、街中に蔓延する“ながらスマホ”の数々・・・あなたは高額の賠償金を覚悟で〈それでもやりますか?〉と聞いてみたい気持ちです。

スマホの「ながら」問題に思うこと

すでに人々の生活の中に広く浸透しているモバイル・ツールの「スマホ」ですが、ある日のこと-。

スポーツ新聞他社のベテラン女性記者と雑談中、彼女はテーブルに使い込んだスマホを置き、話しながらも常にスマホを操作できる態勢をつくっていました。

例えば、雑談のテーマが映画になり、ウ~ン、あの映画ね、何年に公開されたか忘れちゃったけど・・・などの会話は、よくあることですが、彼女はそこで横に置いたスマホを活用、検索で即座に調べ、それ、○○年ですね、とフォローしてきます。

それはそれで感心すべき出来事であり、私などは、会話で当たり前だった、あれ、何だったっけ? というアバウトの部分が、あってもいいのでは、と思うのですが、スマホの普及により、それを使う人々は、思い出せないデータを、この便利ツールの手助けにより、常に正確に速攻で出して来ます。

古い話ですが、こんな便利なものがなかった時代、私たちにとって欠かせなかった「調べる」という作業は、ことのほか手間を要し、自社の資料室にこもったり、図書館に足を運んで長い時間を使ったりしていたものでした。

PCの時代となり、ノートやダブロイドなどモバイル・ツールは、欠かせないものとなりましたが、操作に楽なスマートフォンの抜群の機能性に慣れてしまうと、この女性記者のように〈自分の能力+スマホの機能〉の合体でどんどん、ことをスピーディーに正確に進められるようになります。

時間に追われる記者としては、調べるというもどかしい作業が省かれる分、効率的に動けるというものなのでしょうね。もちろん、それは私たちではなく、これからの若い記者たちが、なのですが・・・。

「ながら運転」は厳罰化の方向へ

その一方-。

先ごろ、携帯電話などを操作しながら車を運転する「ながら運転」に対し、政府が道路交通法の改正で罰則を強化する方針にあることが報じられました。

新聞記事によると、政府が「ながら運転」の厳罰化に乗り出したのは、スマートフォンの普及に伴い、メールやゲームなどの画面に目をやりつつ運転することで起きる事故が大きく増加しているため、とのことでした。

この「ながら運転」以前に社会問題化しているのが、自転車に乗りながらの「ながら運転」や歩きながらの「歩きスマホ」です。

昨年末からこの1月にかけて、街中に人出が多いこともありますが、どこを見ても、まさに「歩きスマホ」の群れ、といった様相。歩行者は皆が、ぶつかる寸前でよけ合っているふうで、俯瞰(ふかん)すると、それはまったく奇妙な光景に見えます。

私自身もこれまで、ぶつかりそうになったことは再三あり、注意したとき「歩きスマホ」の青年は「見えていますから」と答え、しかし、よけたのは間違いなく私のほうだったし、彼らの多くは、そう考えているのだろうな、と苦々しく思ったことがありました。

この問題は、あくまで〈公共マナーの問題〉であり、背中に薪を背負った二宮金次郎は、本を「歩き読み」しているではないか、などの屁理屈をこねる問題ではないわけです。

今回、政府が「ながら運転」に対して厳罰化に乗り出したことに関しては、個々が自ら守るべきマナーの領域に“お上”が介入する、という意味では賛成しかねますが、自らマナーを守れずに危険をまき散らしてしまうのなら、実施もやむを得ないことですね。

それと・・・時間に追われる記者たちが、ついやってしまった、ということが起こらないか、ということも心配なことです。

常に片手にスマホを持ちながら・・・ということが当たり前になればなるほど、ついやってしまった、の事故は減らないような気がします。

もし「ながら運転」に続いて「歩きスマホ」にも罰金などが科されるようになった場合、モパイラーたちは、罰金が科されるならやめる、ではなく、それを「恥ずかしいこと」と思う反省が先立たなくてはなりませんね。
プロフィール

佐藤 彰雄

Author:佐藤 彰雄
◆生年月日 
1944年(昭19)8月生まれ
◆出身 
神奈川県
◆プロフィール
スポーツニッポン新聞社在職中は運動部記者として大相撲、野球、ゴルフ、ボクシング、格闘技などを幅広く取材・執筆。
現在はフリーの立場でボクシングを中心に取材活動を続けている。
ゴルフのマスターズなど海外取材経験も豊富。

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