映画「傷だらけの栄光」に思うこと
先日、地域の映画文化発展の一翼を担う「湘南映画上映会」(運営・シネマテーク茅ケ崎=福田浩三代表)に携わる方々の集まりが茅ケ崎市内(神奈川県)であり、私も地元在住の友人とともに参加させていただきました。
「湘南映画上映会」は、茅ケ崎市立図書館(第一会議室)を利用して、松竹が世に送り出したかつての名作の数々を中心に、福田代表の熱意のもと、地元の映画ファンのために、入場料無料、報酬ゼロのボランティアで定期的に上映されているものです。
周知のように松竹の撮影所は、1936年(昭11)に「蒲田」から「大船」(神奈川県鎌倉市)に移転、以後、2000年(平12)に閉鎖されるまで、大船の地は映画人たちの熱意に満ちあふれている場所でした。
その関係で湘南エリアには、大島渚氏(監督=故人)・小山明子夫妻を初めとする映画人たちが数多く在住しています。
今回の集まりにも、かつて大船撮影所の所長も務めた“大長老”の脇田茂プロデューサー、私が好きな映画「望郷」で監督デビューした大嶺俊順監督、ベテラン撮影技師の中橋嘉久氏ら、茅ケ崎在住の映画人たちが出席、さまざまな貴重な話を聞く機会を得ました。
そうした中でたまたま、私がスポーツ記者としてボクシング界に出入りしていることもあり、、隣に座っていた福田氏が、ボクシング映画にも結構、いいのがありますね、と話題を振ってきました。その一つに挙がったのが、ああ、懐かしいですねェ。あの名作「傷だらけの栄光(Sombody Up There Likes Me)」です。
いってみれば“殴り合い”のボクシングに競技性はあるのかどうか、と廃止論が出たり、あの「袴田事件」のようにボクサーであるがために冤罪につながる悪いイメージを持たれたり、ボクシング競技は、長い歴史を持つ五輪種目でありながら、野球やサッカーのように少年たちのあこがれのスポーツには、なかなかなり得ません。
ボクシングものが映画の題材になる理由
私がこの世界に魅(ひ)かれるのは、そうした場に生きるボクサーたち、つまり、決して恵まれたジャンルにはいない「人」たちの生き方にしばしば、感動を覚えるためです。
例えばボクシング界には、独特の「再起戦」という言葉があります。
負けた選手が、次に行う試合を、そう呼ぶのですが、負けた試合から次に行う試合の間には、ボクシング人生の続行にかかわるさまざま問題が起きてくるからこそ、それを乗り越えて次に向かう試合を「再起戦」~再び立ち上がる試合~と重々しく呼ぶのでしょう。
ちなみにリーグ戦で行う野球やサッカーは、年間を通して何勝何敗の勝負となり、特に野球には“負け試合”が組まれることもあり、たった一つの敗戦が、ボクシングのように人生を左右してしまう、などということはありません。
さて・・・米映画「傷だらけの栄光」(ロバート・ワイズ監督=1956年7月製作、同年12月日本公開)は、ミドル級の世界王者ロッキー・グラジアノ(米=1947年~1948年)の人生を描いた実話ものです。
映画が公開された昭和31年は、私はまだ12歳で、その当時、観(み)たかどうかは記憶にありませんが、なぜか魅力的に感じたタイトルとグラジアノを演じたポール・ニューマンの悲しげな顔を覚えており、後になってリバイバル作品か何かで観る機会を得ていたのかもしれません。
ニューヨークの下町の貧民街に育った不良少年のロッキーが、感化院→軍隊→脱走・・・そしてボクサーの道へと入っていきます。
少年院でボクシングを覚え、やがて世界への道を駆け上がった元3団体統一世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米)の例を持ち出すこともなく、こうした経緯でプロボクシングの世界に入ってくる不良少年たちは多く、やがてボクシングが支えとなって更生に至るストーリーは、国内外を問わず、多くあります。
ロッキーは、かつての刑務所仲間から八百長を依頼され、それを断ったことで数々の火の粉をかぶることになりますが、困難を克服して世界の頂点に上り詰める、という、ある意味、ボクシングものの原型と言えるかもしれません。
が、見方を変えれば、ボクシング界やそこに生きるボクサーたちには、常にこうしたイメージがつきまとうのだなァ、と思い、そこからのサクセス・ストーリーは感動的ではあるものの、これからの時代には、もっと、よりアスリート性が出せるようになればなァ、とも思い、複雑な気持ちになります。
もっとも、それでは、映画の題材になり得ませんか?
「湘南映画上映会」は、茅ケ崎市立図書館(第一会議室)を利用して、松竹が世に送り出したかつての名作の数々を中心に、福田代表の熱意のもと、地元の映画ファンのために、入場料無料、報酬ゼロのボランティアで定期的に上映されているものです。
周知のように松竹の撮影所は、1936年(昭11)に「蒲田」から「大船」(神奈川県鎌倉市)に移転、以後、2000年(平12)に閉鎖されるまで、大船の地は映画人たちの熱意に満ちあふれている場所でした。
その関係で湘南エリアには、大島渚氏(監督=故人)・小山明子夫妻を初めとする映画人たちが数多く在住しています。
今回の集まりにも、かつて大船撮影所の所長も務めた“大長老”の脇田茂プロデューサー、私が好きな映画「望郷」で監督デビューした大嶺俊順監督、ベテラン撮影技師の中橋嘉久氏ら、茅ケ崎在住の映画人たちが出席、さまざまな貴重な話を聞く機会を得ました。
そうした中でたまたま、私がスポーツ記者としてボクシング界に出入りしていることもあり、、隣に座っていた福田氏が、ボクシング映画にも結構、いいのがありますね、と話題を振ってきました。その一つに挙がったのが、ああ、懐かしいですねェ。あの名作「傷だらけの栄光(Sombody Up There Likes Me)」です。
いってみれば“殴り合い”のボクシングに競技性はあるのかどうか、と廃止論が出たり、あの「袴田事件」のようにボクサーであるがために冤罪につながる悪いイメージを持たれたり、ボクシング競技は、長い歴史を持つ五輪種目でありながら、野球やサッカーのように少年たちのあこがれのスポーツには、なかなかなり得ません。
ボクシングものが映画の題材になる理由
私がこの世界に魅(ひ)かれるのは、そうした場に生きるボクサーたち、つまり、決して恵まれたジャンルにはいない「人」たちの生き方にしばしば、感動を覚えるためです。
例えばボクシング界には、独特の「再起戦」という言葉があります。
負けた選手が、次に行う試合を、そう呼ぶのですが、負けた試合から次に行う試合の間には、ボクシング人生の続行にかかわるさまざま問題が起きてくるからこそ、それを乗り越えて次に向かう試合を「再起戦」~再び立ち上がる試合~と重々しく呼ぶのでしょう。
ちなみにリーグ戦で行う野球やサッカーは、年間を通して何勝何敗の勝負となり、特に野球には“負け試合”が組まれることもあり、たった一つの敗戦が、ボクシングのように人生を左右してしまう、などということはありません。
さて・・・米映画「傷だらけの栄光」(ロバート・ワイズ監督=1956年7月製作、同年12月日本公開)は、ミドル級の世界王者ロッキー・グラジアノ(米=1947年~1948年)の人生を描いた実話ものです。
映画が公開された昭和31年は、私はまだ12歳で、その当時、観(み)たかどうかは記憶にありませんが、なぜか魅力的に感じたタイトルとグラジアノを演じたポール・ニューマンの悲しげな顔を覚えており、後になってリバイバル作品か何かで観る機会を得ていたのかもしれません。
ニューヨークの下町の貧民街に育った不良少年のロッキーが、感化院→軍隊→脱走・・・そしてボクサーの道へと入っていきます。
少年院でボクシングを覚え、やがて世界への道を駆け上がった元3団体統一世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米)の例を持ち出すこともなく、こうした経緯でプロボクシングの世界に入ってくる不良少年たちは多く、やがてボクシングが支えとなって更生に至るストーリーは、国内外を問わず、多くあります。
ロッキーは、かつての刑務所仲間から八百長を依頼され、それを断ったことで数々の火の粉をかぶることになりますが、困難を克服して世界の頂点に上り詰める、という、ある意味、ボクシングものの原型と言えるかもしれません。
が、見方を変えれば、ボクシング界やそこに生きるボクサーたちには、常にこうしたイメージがつきまとうのだなァ、と思い、そこからのサクセス・ストーリーは感動的ではあるものの、これからの時代には、もっと、よりアスリート性が出せるようになればなァ、とも思い、複雑な気持ちになります。
もっとも、それでは、映画の題材になり得ませんか?
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