ドラフト会議の壁に泣く有望選手だが・・・

「菅野の選択」は、プロ野球界への就職を希望する選手たちと、その前に立ちふさがるドラフト会議(新人選手選択会議)の壁を、あらためて認識させられました。10月27日のドラフト会議で日本ハムに1位指名されてから約1カ月、11月21日に日本ハムへの入団拒否を正式に表明、1年間の“浪人”を選んだ東海大・菅野智之投手(22)の決断です。

大学卒の若者が就職する際、考え方としてはまず、働きたい業種を選び、その中から入社したい企業を第一候補、第二候補・・・と選び出し、チャレンジしていくのが一般的でしょう。すんなりと第一候補の会社に入社できれば言うことありませんが、このご時勢、第二候補、第三候補・・・を余儀なくされることも仕方なく、最終的に希望する業種に残れれば、と、最大の譲歩を強いられることも少なくないようです。

この図式で言えば、最速157キロ右腕の持ち主の菅野は、卒業後の就職先として文句なしにプロ野球界という業種を決め、第一候補の企業(球団)は、伯父の原辰徳監督(菅野の母親の兄)が率いる巨人、と心に決め、その心にかなわなかった場合の第二、第三候補はなかったようです。

が、その前にドラフト会議の壁が立ちふさがりました。巨人の単独指名を予想していたところに日本ハムが割って入り、抽選の結果、交渉権を獲得したのは日本ハムでした。

プロ野球界で第1回のドラフト会議が行われたのは1965年(昭和40年)の秋です。この制度がなかった時代、有望選手獲得のための過当競争が繰り広げられ、制度の確立は、その防止とともに、有望選手が特定球団に集中しないための手立て、でもありました。

球界正常化の手順は受け入れるべき

私がスポニチ本紙在職中に関わったのが、例の「空白の一日」で球界を激震させた「江川事件」でした。“怪物”と称された江川卓投手は、作新学院高卒業時(1973年)に阪急から受けた1位指名を拒否、進学した法大卒業時(1977年)にクラウンライターから受けた1位指名も拒否、浪人生活に入り、翌年のドラフト会議での巨人の指名を待っていましたが1978年、ドラフト会議前日の「空白の一日」をついた巨人の電撃入団発表で球界を大騒動に巻き込みました。

私がここで言いたいことは、事件ではなく、江川投手が大卒後の1年間、浪人生活を送ったことの是非です。孤独の練習などに取材で付き合いましたが、スポニチ本紙に掲載された槙原寛己氏の菅野の決断に関する評論では、江川投手の浪人生活に触れ「あの江川さんでも(プロ)1年目は9勝止まり。1年間のブランクを取り戻すのに2~3年かかったと聞く」と浪人生活のマイナス面を指摘していました。

もちろん菅野の決断は、安易なものではなく、幼少時から相思相愛的だった巨人への入団を目指すための厳しい試練にあえて立ち向かう、熟考の末の覚悟だそうですが、そこまで考えたなら、まず、希望する業種に入って働いてみることを考えてもよかったのでは? と思います。

菅野にとってドラフト会議は、やっかいな壁、だったかもしれません。また、人々は「行きたいところに行けないなんて気の毒だ」と言うかもしれません。が、これは少なくともプロ野球界の繁栄を目的とした正常化のシステムなのであり、プロ野球界を目指すものは、この手順を踏んだ上の就職、という認識を持つことが必要なのではないか、と思いますが・・・。

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プロフィール

佐藤 彰雄

Author:佐藤 彰雄
◆生年月日 
1944年(昭19)8月生まれ
◆出身 
神奈川県
◆プロフィール
スポーツニッポン新聞社在職中は運動部記者として大相撲、野球、ゴルフ、ボクシング、格闘技などを幅広く取材・執筆。
現在はフリーの立場でボクシングを中心に取材活動を続けている。
ゴルフのマスターズなど海外取材経験も豊富。

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