懐かしの「にあんちゃん」を観て・・・
地域の文化活動である「カワマタ・キネマサロン」の4月例会が20日夜、私が住む藤沢市内(神奈川県)の本鵠沼で開かれました。
この日は、前日(4月19日)午後からの雨が、止(や)まずに降り続き、真冬に逆戻りの寒さとなりましたが、上映作品が今村昌平監督の、懐かしき「にあんちゃん」(1959年=昭34=製作・公開、日活配給)だったこともあり、これは見逃せない、と出掛けました。
「にあんちゃん」が公開された1959年は、振り返ってみると、私は中学生でした。周辺の人たちに聞いてみると、当時、小学生だった人は、学校の課外授業として、この映画を観(み)に全員で映画館に出かけたり、あるいは、学校の体育館で上映されたのを覚えているヨ、などという人もいました。
それから長い年月が経過した今、改めて思ったことは、今村監督と言えば、すぐに思い浮かぶのが、例えば「にっぽん昆虫記」(1963年公開=日活)だったり「神々の深き欲望」(1968年公開=日活)や「復讐するは我にあり」(1979年公開=松竹・今村プロ)だったり、人間の内面の生々しさを容赦なくえぐった作品群、がイメージされます。
が、極貧の中で必死に生きる4人兄妹の頑張る姿を描いた「にあんちゃん」は、今村氏が脚本を受け持った「キューポラのある街」(1962年公開=日活)の、吉永小百合のけなげに生きる姿がなぜかダブる“青春もの”であることに驚かされます。
「にあんちゃん」は、今村監督の4作目ですが、次の5作目が、あの「豚と軍艦」(1961年公開=日活)であれば、同監督作品の中で「にあんちゃん」がいかに“異色”であるか、分かろうというものでしょう。
生活苦に立ち向かう子供たちの明るさ
「にあんちゃん」は、いまさら言うまでもなく、10歳の少女である安本末子が書いてベストセラーになった日記を映画化したものです。
モロクロ画面の映画はまず、ドキュメントふうに九州・佐賀県の炭鉱町を映し出します。不況による炭鉱従事者のストライキ風景、働き手である父の死により両親をなくし、途方に暮れる在日の4兄妹-長兄・安本“長門裕之”喜一、長姉・安本“松尾嘉代”良子、次兄・安本“沖村武”高一、そして、日記の書き手である一番下の安本“前田暁子”末子-タイトルの「にあんちゃん」は、末子の二番目の兄・高一に対する呼び名です。
この炭鉱町に住む人々は、誰もが貧しく、その日暮らしに追われ、大黒柱を失った4兄妹に対し何とかしたい気持ちはあっても、自分たちが生きることに精いっぱいで余裕がありません。長兄の“長門”喜一、長姉の“松尾”良子は、長崎に働きに出かけ、炭鉱町に残った高一と末子は、学校に持っていく弁当もままならず、水で我慢し、末子に至っては栄養失調で倒れてしまうほど、先行きの見えない苦しさを強いられます。
小学生の幼い2人が必死に生きる姿や、彼らを取り巻く周囲の人々の姿を、カメラは淡々と映し出します。が、観ていて思うことは、そこに“お涙頂戴”がない、ということです。
アルバイトの重労働に汗する高一も、やっていられるか! とボヤきながらも、苦難に立ち向かうたくましさが漂い、疲れ果ててどこでもバタンキューと倒れるように寝てしまう末子にも、アハハ! とそれを笑い飛ばしてしまう明るさがあり、観る側に“頑張れよ!”とつぶやかせてしまいます。
高度経済成長が進むにつれて、石炭から石油への転換期となったのが、この年代でした。「にあんちゃん」が公開された昭和34年、炭鉱業界は合理化を迫られ、その事態を象徴したのが「三井三池炭鉱」の労働争議だったでしょうか。
今にして思えば、この北九州で起きた時代の転換を告げる争議でも、映画の中の4兄妹の苦闘と同様のことが起きていたのでしょう。
と考えると、涙を誘う脚色などを排除し、原作である日記を忠実に再現させた(のだろう)リアリティ(真実性)こそが、今村監督が描きたかった異色の“青春もの”だったのかもしれません。
この日は、前日(4月19日)午後からの雨が、止(や)まずに降り続き、真冬に逆戻りの寒さとなりましたが、上映作品が今村昌平監督の、懐かしき「にあんちゃん」(1959年=昭34=製作・公開、日活配給)だったこともあり、これは見逃せない、と出掛けました。
「にあんちゃん」が公開された1959年は、振り返ってみると、私は中学生でした。周辺の人たちに聞いてみると、当時、小学生だった人は、学校の課外授業として、この映画を観(み)に全員で映画館に出かけたり、あるいは、学校の体育館で上映されたのを覚えているヨ、などという人もいました。
それから長い年月が経過した今、改めて思ったことは、今村監督と言えば、すぐに思い浮かぶのが、例えば「にっぽん昆虫記」(1963年公開=日活)だったり「神々の深き欲望」(1968年公開=日活)や「復讐するは我にあり」(1979年公開=松竹・今村プロ)だったり、人間の内面の生々しさを容赦なくえぐった作品群、がイメージされます。
が、極貧の中で必死に生きる4人兄妹の頑張る姿を描いた「にあんちゃん」は、今村氏が脚本を受け持った「キューポラのある街」(1962年公開=日活)の、吉永小百合のけなげに生きる姿がなぜかダブる“青春もの”であることに驚かされます。
「にあんちゃん」は、今村監督の4作目ですが、次の5作目が、あの「豚と軍艦」(1961年公開=日活)であれば、同監督作品の中で「にあんちゃん」がいかに“異色”であるか、分かろうというものでしょう。
生活苦に立ち向かう子供たちの明るさ
「にあんちゃん」は、いまさら言うまでもなく、10歳の少女である安本末子が書いてベストセラーになった日記を映画化したものです。
モロクロ画面の映画はまず、ドキュメントふうに九州・佐賀県の炭鉱町を映し出します。不況による炭鉱従事者のストライキ風景、働き手である父の死により両親をなくし、途方に暮れる在日の4兄妹-長兄・安本“長門裕之”喜一、長姉・安本“松尾嘉代”良子、次兄・安本“沖村武”高一、そして、日記の書き手である一番下の安本“前田暁子”末子-タイトルの「にあんちゃん」は、末子の二番目の兄・高一に対する呼び名です。
この炭鉱町に住む人々は、誰もが貧しく、その日暮らしに追われ、大黒柱を失った4兄妹に対し何とかしたい気持ちはあっても、自分たちが生きることに精いっぱいで余裕がありません。長兄の“長門”喜一、長姉の“松尾”良子は、長崎に働きに出かけ、炭鉱町に残った高一と末子は、学校に持っていく弁当もままならず、水で我慢し、末子に至っては栄養失調で倒れてしまうほど、先行きの見えない苦しさを強いられます。
小学生の幼い2人が必死に生きる姿や、彼らを取り巻く周囲の人々の姿を、カメラは淡々と映し出します。が、観ていて思うことは、そこに“お涙頂戴”がない、ということです。
アルバイトの重労働に汗する高一も、やっていられるか! とボヤきながらも、苦難に立ち向かうたくましさが漂い、疲れ果ててどこでもバタンキューと倒れるように寝てしまう末子にも、アハハ! とそれを笑い飛ばしてしまう明るさがあり、観る側に“頑張れよ!”とつぶやかせてしまいます。
高度経済成長が進むにつれて、石炭から石油への転換期となったのが、この年代でした。「にあんちゃん」が公開された昭和34年、炭鉱業界は合理化を迫られ、その事態を象徴したのが「三井三池炭鉱」の労働争議だったでしょうか。
今にして思えば、この北九州で起きた時代の転換を告げる争議でも、映画の中の4兄妹の苦闘と同様のことが起きていたのでしょう。
と考えると、涙を誘う脚色などを排除し、原作である日記を忠実に再現させた(のだろう)リアリティ(真実性)こそが、今村監督が描きたかった異色の“青春もの”だったのかもしれません。
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