名作「家族」を観(み)て感じたこと

日本映画“不朽の名作”とされる、山田洋次監督作品「家族」(松竹配給=1970年10月公開)の「風見一家」は、求めた希望に手を届かせることが出来たのでしょうか。

福田浩三氏(67)が主宰する「シネマテーク茅ヶ崎」の「湘南映画上映会」新年第一弾(1月12日=神奈川・茅ヶ崎市立図書館本館第一会議室)は、この作品の上映となり、茅ヶ崎市在住のいつもの友人2人とともに足を運びました。

この映画「家族」は、長崎・西彼杵群の伊王島から北海道・標津郡別海町へと至る、日本列島縦断を舞台とした、セット撮影は2シーンだけという“ロード・ムービー”です。

ちなみにロード・ムービー(road movie)とは、旅の途中で起きた様々な出来事を物語にするという映画ジャンルで、すぐに思い浮かぶ他作品としては、石原裕次郎&浅丘ルリ子の追っかけっこ「憎いあンちくしょう」(1962年日活)や高倉健&倍賞千恵子の「幸福の黄色いハンカチ」(1977年松竹)などがあります。

伊王島の炭鉱が閉山された1970年代初頭、島に住む風見“井川比佐志”精一は、それを機に北海道・標津郡の開拓村で働く友人の誘いもあり、北の大地への移住に新たな人生の希望を見い出そうとします。

妻の風見“倍賞千恵子”民子は当初、夫・精一のこの決断に猛反対し、島に残るつもりでいましたが、単身でも行く! という精一の固い決意に折れ、結局、自らも気持ちを変えて風見一家~精一の父親・風見“笠智衆”源造、精一、民子、幼い長男・剛、民子に背負われた長女・早苗、の5人が、島の人々に盛大に見送られ、波止場から長崎に向かう連絡船に乗るところから物語は始まります。

“倍賞”民子の黒い革靴と白いソックスが、まったく自然に田舎の純情を象徴しており、思わず笑ってしまいそうになりました。

長崎から博多へ。そして列車は本土に入って行きます。延々とまだ先が見えない汽車の旅。初めての長旅に無邪気にはしゃぐ剛。貧しさと希望・・・。

映画が公開された1970年(昭45)の日本は、どんな時代だったのでしょうか。社会背景としては、同年3月から大阪で開催されたアジアで初の万博「日本万国博覧会(大阪万博)」の、人、人、また人、の熱狂が象徴する、高度経済成長の真っただ中にありました。

希望を掴むための過酷すぎる旅

ちなみに私の1970年を思い起こしてみると、1969年(昭44)にスポニチ本紙に入社して2年目、西も東も分からない駆け出し記者時代、大相撲の担当記者を命ぜられ、11月の九州場所取材に際しては、新幹線は普及していましたが、私の分際ではまだ、東京発夜行寝台列車利用で翌日の明け方、寝不足で博多に到着していましたっけ・・・。

安い給料で生活できるかな? と不安を感じつつも1971年(昭46)に結婚しましたが、世の中の景気の良さとともに給料も右肩上がりの時代でした。

・・・さて、風見一家の旅は、福山で最初のつまずきが起こります。源造は当初、そこに住む精一の弟・風見“前田吟”力の家に身を寄せるつもりでいましたが、力一家にしても経済事情は厳しく、父親が寝起きする場所も十分でなく、渋い顔を見せる力に精一は、老齢の父親を気遣いながらも、厳しい生活が予測される北海道に連れて行くことを余儀なくされます。

そこから大阪へ。東京に向かう新幹線の待ち時間を利用して「大阪万博」も見物しますが、東京に着いて乳飲み子の早苗が体調を悪化させ、夜の街、病院を探し回りますが、やっと診察を受けられたときは、すでに手遅れで、小さな命を亡くしてしまいます。

悲しみが重くのしかかり、それでも家族は、帰りたくても引き返すわけには行かず、黙々と北へ向かいます。青森→(青函連絡船)→函館→札幌→釧路。そしてやっと、目的地の中標津にたどり着きます。

一夜が明けた朝、まだ残雪が残る、何もない一面銀世界を、精一&民子はただただ、呆然と見つめるだけでした。到着時、まだまだヘコたれん! と頑張っていた源造が、その夜、睡眠中に息を引き取りました。

開拓村の仲間たちの励まし-。「6月になると皆、今年は何かいいことがあるだろう、と前を向くんだよ」

その6月がきて、根釧原野が緑に包まれ、風見一家の顔にもやっと笑いが戻って・・・。

この日の上映会には「家族」の助監督を務めた大嶺俊順監督、脚本に携わった宮崎晃監督(同映画の脚本賞を受賞)、調音技師の松本隆司氏が、ゲストトークとして出席、エピソードの披露や質疑応答が行われました。

宮崎監督への私の質問です。

-この家族には、相当過酷な試練を課したのでは? と思います。中でも、家族が求めた希望を受け継ぐべき幼児を死なせてしまったのは心が痛みます。そうした重さ、暗さが、最後の6月の緑の中の笑い(希望へ向かう明るさ)を殺してしまっているのでは?

宮崎監督「山田(洋次監督)はね、なぜか、最後のつくりがヘタなんだよね。やはり、つらく過酷な旅だったけど、来てよかった、というほうを感じてほしいですね」

が、大嶺監督がひとつ、問いかけました。

根釧台地の別海村で開始された「酪農」は、国営のパイロットファーム(実験農場)計画で推進され、大規模酪農経営が展開されましたが、一方、1970年代からは、小規模な農家が衰退、離農・廃業を余儀なくされた、という事実もありました。

そこに風見一家の、案じられる“その後”が見え隠れしますが、果たして希望をつかむことが出来たのかどうか、が、妙に気がかりとなる映画でした。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
プロフィール

佐藤 彰雄

Author:佐藤 彰雄
◆生年月日 
1944年(昭19)8月生まれ
◆出身 
神奈川県
◆プロフィール
スポーツニッポン新聞社在職中は運動部記者として大相撲、野球、ゴルフ、ボクシング、格闘技などを幅広く取材・執筆。
現在はフリーの立場でボクシングを中心に取材活動を続けている。
ゴルフのマスターズなど海外取材経験も豊富。

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
ランクアップにご協力下さい
↓↓↓↓クリック↓↓↓↓
QRコード
QR