日本人が忘れ去ったものを・・・

行きつけの「飲み処(どころ)」で、芋(いも)焼酎のお湯割りなどをノンビリやっていると、相撲好きの飲み仲間が声をかけてきました。

〈強いね~。白鵬に敵なしだね。こういう強い横綱が、日本人でないのが悔しいよね~〉

大相撲初場所13日目(1月23日)に横綱・白鵬(29=宮城野)が、無傷の13連勝で早々に優勝を決め、しかも、不滅とされてきた“昭和の大横綱”大鵬(故・納谷幸喜さん=享年72)のV32を抜いて単独史上最多となるV33を達成した偉業を受けてのものです。

モンゴル勢を中心とする外国人勢が大相撲界で活躍するにつけ、日本勢はどうした! の声が次第に高まって久しい現状です。

私自身、スポーツ新聞の記者生活をスタートさせたのは、相撲担当からでした。初めて取材に当たったのは、入社2年目の1970年(昭45)初場所でしたが、その当時の大相撲界は、大鵬が晩年期に入っており、その進退を常に注意していなければならなかった、という状況にあり、それだけに強い横綱だった大鵬については、今でも印象を強く残しています。

駆け出し記者だった私に大鵬がこう教えてくれたことを覚えています。

「横綱に調子がどうこうを聞くのは失礼にあたる。横綱というものは、調子がどうであろうと、出る以上は、それを超えて結果を出さなければならない。それが最高位に立つものの責任というものなのだ」

ふと思えば今、こうした責任を白鵬がよく承知しており、日本人力士には、その地位を問わず、全体的に欠けているような気がします。特に横綱を目指すべく大関陣、それに続く関脇陣(難しい位置ではありますが)に意識の欠如が目立ちますね。

モンゴル人力士が達成した“大鵬超え”の偉業

日本人力士の弱体化を「力士の供給源」として大きな役割を果たしていた「集団就職列車」の運行終了によるもの、と分析したのは、私のかつての記者仲間だった元日刊スポーツ記者の工藤隆一氏でした。

彼は自著「力士はなぜ四股を踏むのか~大相撲の“なぜ?”がすべてわかる本~」(日東書院刊)でこう書いています。

〈(略)国の富が地方にも十分に配分されるようになった昭和40年代後半から、従来力士の供給源だった、地方の第一次産業従事者の生活が豊かになったのです。その結果、昭和50年に集団就職列車の運行が終了。地方の進学率も上昇し、いわゆる「田舎の貧乏人」がどんどん減ってしまったのです。(略)〉

また彼は、こうも書いています。

〈(略)世間知らずの中卒で入門、朝暗いうちから起き、ちゃんこ番や付け人を務め、兄弟子にどやされながらじっと辛抱し、悔しさをばねにけいこを重ねて出世していくという、かつての相撲界の常識は、皮肉なことに外国人が担うようになってしまったのです。(略)〉

つまり、日本人から消えていった、出世の原動力である“ハングリー精神”を、代わって外国人が持った、ということですね。

ちなみに地方の中卒者による大都市への集団就職が始まったのは、1955年(昭30)ごろの高度経済成長期で、最盛期は昭和40年代前半まで、と資料にあります。

“金の卵”たちの移動手段としての集団就職列車は、1975年(昭50)に運行を終え、高度経済成長期から安定成長期に移行した日本の経済情勢は、次第に高卒者の採用へと移っていきます。

とともに、土俵の中に埋まっている金をつかむハングリーな気持ちも、次第に薄れていったのかもしれません。

スポニチ本紙の担当記者は、白鵬について〈体重62キロだった15歳で来日。稽古場では何十番とっても負け続け、ふすまの向こうから悔し泣きが聞こえた。でも「帰りたい」だけは言わなかった〉と報じています。

こうした我慢と向上心を日本人力士たちは今、どうとらえているのでしょうか。そこが分岐点のような気がしますが・・・。

白鵬に負けじと頑張っってもらいたいものですね。
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プロフィール

佐藤 彰雄

Author:佐藤 彰雄
◆生年月日 
1944年(昭19)8月生まれ
◆出身 
神奈川県
◆プロフィール
スポーツニッポン新聞社在職中は運動部記者として大相撲、野球、ゴルフ、ボクシング、格闘技などを幅広く取材・執筆。
現在はフリーの立場でボクシングを中心に取材活動を続けている。
ゴルフのマスターズなど海外取材経験も豊富。

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