力道山が野望を抱いた日

昔のことが懐かしく思い出されます。

小学生だった1950年代、私の週末夕の“お楽しみ”は、近くのお医者さんに家におジャマすることでした。

1953年(昭28)に本放送が開始されたテレビですが、そのころ、一般家庭へのテレビの普及率は、まだまだ低く、お医者さんの家にはあったテレビで、近所の顔なじみが集まって観る番組は「プロレス」なのでした。

そうそう、そうだったよなァ、と覚えている方々も多いのではないか、と思います。

日本テレビが放送した「三菱ダイヤモンドアワー」のプロレス中継は、1954年(昭29)2月19日、日本プロレス協会の旗揚げ興行として行われた「力道山・木村政彦組vsシャープ兄弟」戦が第1弾。最後は力道山の怒りの空手チョップが炸裂するこのカードが、国民を熱狂させたことは、いまさら説明の必要もないことでしょう。

このときの模様が「20世紀~100年物語」(毎日新聞社刊)に、こう記述されています。

〈1954(昭29)年2月19日、この日、東京・蔵前国技館は異様な雰囲気に包まれていた。爆発的な人気となったプロレスリング、その3日間興行「力道山、木村政彦対シャープ兄弟」NWA世界タッグ・チャンピオン選手権試合が、今まさに行われようとしていたからである〉

テレビとともに歩んだプロレス

そして、こう続けます。

〈この試合、NHKが第1日を、日本テレビが3日間連続して中継放送し、東京・有楽町の日本劇場前に設置された27インチの街頭テレビの画面には1万人近くがくぎ付けになった。(略)〉

その街頭テレビに関しては-。

〈街頭テレビは、一般の人がテレビというものをほとんど知らなかった1953年に、テレビジョンの本放送開始と同時に登場した。その数278台。当時、テレビのある家庭は、日本中でわずか3500世帯だった。(略)〉

娯楽の少なかったこの時代、こうした熱狂的シーンを演出した「日本プロレスリング協会」は、1953年のこの夏の時期、7月30日に大相撲からプロレス界に転身した力道山が設立しています。

力道山が柔道家の木村政彦とのタッグでシャープ兄弟を迎撃し蹴散らす展開。草創期のテレビがまだ未知数の、このプロレスというジャンルを取り上げた冒険。プロレスとテレビのドッキングは、まさに命運を共にする仲だったことでしょう。

力道山の日本プロレス協会は、やがてタッグを組んだ力道山と木村の仲たがいから、観る側を戦慄させたあの対決(1954年12月22日)を生み、さらに国民を熱狂させる力道山vs“鉄人”ルー・テーズのタイトルマッチという黄金カードでプロレスを軌道に乗せて行きました。

力道山以後、ジャイアント馬場の全日本プロレス、アントニオ猪木の新日本プロレス、とプロレス界は分裂し、離合集散を繰り返し、さらには、立ち技打撃系のK-1、総合格闘技のPRIDE、などのリアルファイト人気に押される時期もあり、今、あまり元気がありません。

例えば、力道山の時代のプロレス人気が、戦争で米国に負けたという劣等感に支配されていた日本人のうっぷんを晴らすもの、であったように、あるいは大仁田厚の“邪道魂”が既成の打破を目指すように、世の中の対立構図をリングの中に持ち込んで観る側をスカッとさせる要素がプロレスには必要のようです。

力道山によって、日本のプロレスの母体が創られた日、を思い浮かべて、ふと昔をしのんでみましたが・・・。
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プロフィール

佐藤 彰雄

Author:佐藤 彰雄
◆生年月日 
1944年(昭19)8月生まれ
◆出身 
神奈川県
◆プロフィール
スポーツニッポン新聞社在職中は運動部記者として大相撲、野球、ゴルフ、ボクシング、格闘技などを幅広く取材・執筆。
現在はフリーの立場でボクシングを中心に取材活動を続けている。
ゴルフのマスターズなど海外取材経験も豊富。

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