東北勢に厚い「白河関」の壁

熱戦を展開させた全国高校野球選手権大会(甲子園球場)は、東海大相模(神奈川)が45年ぶり2度目の優勝を飾って幕を閉じました。

8月20日の決勝戦は、果敢な点の取り合いとなり、6-6の同点で迎えた9回に東海大相模が、勝ち越しの本塁打を含む4点を奪うという、戦う側にとっては大変な試合、だから観る側にとっては面白い試合、いかにも高校野球らしい“全力投球”の試合となりました。

先行する東海大相模を追い(3回)、追いつき(6回)、しかし、あと一歩及ばずに突き放された仙台育英(宮城)には、心に「深紅の優勝旗」を抱いてもらいたい気持ちですが、春・夏の大会を通して東北勢に優勝がない、というのも、不思議といえば不思議なジンクスですね。

資料をひもとくと、東北勢の決勝進出は、1915年(大4)夏の秋田中(当時=秋田)を初めとして11度ありますが、すべてに敗れています。

そんな中で球史に残る激闘が、1969年(昭44)夏の三沢(青森)vs松山商(愛媛)戦。延長18回で引き分け再試合となり、再試合で三沢が敗れました。

今回の仙台育英のあと一歩の健闘を含め、どうしても東北勢が優勝できない出来ごとに対し、高校野球界では、優勝旗の「悲願の白河越え」はいつ? という表現が、いつの頃からか使われるようになっています。

11度目の挑戦も実らず!

・・・で、ちょっと歴史の勉強を-。

「白河」は「福島県南部の市。関東から奥州に入る一門戸」(広辞苑)であり、また「白河関」は「古代の奥羽三関の一つ。遺称地は福島県白河市の旗宿にある」(同)とありました。

つまり、福島県の福島市や郡山市などが位置する「中通り」の南部(県南)は、東北の最南端にあたり、関東の最北端である栃木から東北への入り口としての要衝なのですね。

「福島県の歴史散歩」(山川出版社刊)をめくってみました。この「白河関」越えは、歴史的にさまざまな出来ごとを背負っています。

同書の記述をざっと参考にさせて頂きますと-。

中世初頭には、源頼朝が鎌倉軍を率いて白河関を越え(略)関東武士を県南地方に配置した、とありました。また、元禄期には、これは私たちにも身近な、松尾芭蕉が白河関を越えて「奥の細道」に分け入ったり、幕末期のあの戊辰戦争の際には、まず白河城が攻め落とされ、会津鶴ヶ城に向かっています。

「奥の細道」に分け入った“俳聖”芭蕉の句-。

夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡
閑(しずか)さや 岩にしみいる 蝉の声


などなど-。

こうして改めて「白河関」を見直してみると、いまは新幹線でひと越えであっても、かつてはここに分け入るのは簡単ではなかったことがしのばれます。

なぜかは分かりませんが、全力投球で数々のドラマを生む高校野球というのは案外、こうした古い歴史が根強く残っていたりするもので、深紅の優勝旗の白河関越えには、あるいはまだまだ困難がつきまとうかもしれません。

東北球児たちが、それを打破する日が待ち遠しい、と思うこともまた、話題の一つでしょう。
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プロフィール

佐藤 彰雄

Author:佐藤 彰雄
◆生年月日 
1944年(昭19)8月生まれ
◆出身 
神奈川県
◆プロフィール
スポーツニッポン新聞社在職中は運動部記者として大相撲、野球、ゴルフ、ボクシング、格闘技などを幅広く取材・執筆。
現在はフリーの立場でボクシングを中心に取材活動を続けている。
ゴルフのマスターズなど海外取材経験も豊富。

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