“浪速のジョー”の永遠の「なぜ」②

〈前回①から続く〉

1999年8月29日、ウィラポン(タイ)に奪われたWBC世界バンタム級王座を取り返しに行って惨敗した辰吉は、翌30日、引退を発表。「体力の限界。勝っても辞めるつもりでいた。普通のオヤジになります」と話した。

大阪帝拳・吉井寛社長が振り返る。

「その3日後にジムに練習に来た。言いましたよ。ダメージも疲労の蓄積もあるんやから、とにかく一年間はボクシングのことを忘れなさい、それ以外のことを考えなさい、とね」

ジム立ち入り禁止を命じた吉井社長は、新たにジムを持つことも提案したが、辰吉は一切、耳を貸そうとしない。引退発表時の発言は、辰吉に言わせれば「しますと言わなければ何を言われるか分からんかった。しますと発言したが、ボクの中ではしません」だった。

2000年夏、辰吉は「一年たちました」と言ってジムに来た。どこかで練習を続けていたことは「体はブヨブヨということはなく、60キロ前後をキープしていたと思う」(吉井社長)で明らかだった。我慢比べに音を上げた形の吉井社長は、2001年に4月と9月に試合を組むべく動いた

が、このときはいずれも、辰吉自身が「体がつくれない」と辞退した。

厳しい条件も乗り越え・・・

2002年7月、吉井社長は辰吉と話し合い、復帰戦を行うにあたっての条件を出した。それが日本バンタム級1位・福山登(大阪帝拳)、同スーパーバンタム級1位・池原信遂(同)とのスパーだ。吉井社長は早朝のロードワークに自転車で付き合い、体づくりに協力。辰吉は9月に行ったスパー(各5R)でこの2人をあしらう結果を出した。

復帰に反対するジム側の見解は、何よりも健康管理、3度にわたって手術した左目負傷への懸念だ。辰吉の場合、何かが起こったとき、ボクシング界だけではなく、社会的にも与える影響が大きい。一方、一時代を築いた名王者を腐らせてしまうのも忍びなく、吉井社長は復帰戦(2002年12月=セーン・ソー・プルンチット戦)に高いハードルを設け「勝ったとしても内容的にハードルをクリアしていなければ次はない」との条件を付けて実施に踏み切った。

    *   *   *   *

こうした辰吉陣営の動きに対して、特に辰吉のブレることのない復帰願望に対して、果たしてそれは是なのか非なのか、私は、ジムの先輩にあたる元WBC世界ジュニアウエルター級(現スーパーライト級)王者の浜田剛史氏に聞いています。

-復帰についてどう思いますか?

浜田氏「復帰したことが良かったか悪かったかということは試合の結果を見なければ何とも言えない。ボクサーの進退に関して言えば、自分の“納得度”が尺度になる。つまり、自分に納得すれば引退に踏み切るだろうし、悔いが残っていれば“もう一丁”となる。辰吉君の場合は、前回の試合(1999年8月=ウィラポン戦)でまだ、燃え尽きていなかったということなんでしょうね」

-復帰戦でのポイントは?

浜田氏「約3年間のブランクをどう過ごしていたかでしょう。これは長いですよ。私は2年1カ月のブランクがあったとき、これは試合が組まれては流れるということが3回あり、減量を含めて臨戦態勢はできていた。それでも試合勘に微妙な違いが生じた。辰吉君にとって3年間がどういうものだったのかがカギをに切ることになるでしょうね」

〈次回③に続く〉
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プロフィール

佐藤 彰雄

Author:佐藤 彰雄
◆生年月日 
1944年(昭19)8月生まれ
◆出身 
神奈川県
◆プロフィール
スポーツニッポン新聞社在職中は運動部記者として大相撲、野球、ゴルフ、ボクシング、格闘技などを幅広く取材・執筆。
現在はフリーの立場でボクシングを中心に取材活動を続けている。
ゴルフのマスターズなど海外取材経験も豊富。

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