自らに課した“後始末”のレース

“あのとき”の落とし前をどうつけようか-。

トップランナーの〈ケジメのつけ方〉の凄さに思わず、熱いものがこみ上げてきてしまいました。

3月13日の日曜日午前、ナゴヤドーム発着で行われた、リオ五輪女子マラソン代表の最終選考会を兼ねた「名古屋ウィメンズマラソン」での野口みずき(37=シスメックス)=23位=です。

最後の1枠を懸けて、わずか1秒差、ゴール寸前まで激しいデッドヒートを演じた田中智美(28=第一生命)=日本人トップの2位=と小原怜(25=天満屋)=同3位=の、火花を散らす意地と意地の激突は見応えがありましたが、私はもう一つの孤独の戦い、野口の〈自分との格闘〉のほうに目が行ってしまいました。

ゴールのナゴヤドームが近づいた野口を、レースを中継するテレビが映し出しました。サングラスを外して額の上に上げ、ときおり、笑顔も見せ、涙も光らせ、沿道からの声援に左手を挙げたりしています。

右手を口に当て、涙をこらえながらのてゴール。42・195キロを走り切った野口は「最後の10キロは花道のようでした。本当に最高の42・195キロでした」と声を震わせていました。

“あのとき”の後始末をつけるために、野口はどれだけ自分と戦ってきたことでしょうか。

2004年8月のアテネ五輪女子マラソンで、気温30度超えの酷暑レースを制し、00年シドニー五輪で優勝した高橋尚子に続き、2大会連続の五輪金メダルをもたらしました。

翌05年9月のベルリン・マラソンで出した2時間19分12秒は、今でも日本記録として輝きを放っています。

が、04年アテネ五輪以降、野口は次第に故障との戦いを強いられて行きます。08年北京五輪では、代表となりながら直前に左足を痛めて出場を辞退、2大会連続の五輪出場の機会を逸してしまいます。

13年世界選手権の屈辱を胸に・・・

そして・・・“あのとき”がやってきます。

13年8月の世界選手権モスクワ大会-。

03年8月のパリ大会以来、10年ぶりに出場した世界選手権で、野口は30キロ付近で太ももに異状を覚え止まってしまいます。その後は、歩行と走行を繰り返し、ついに途中棄権を余儀なくされてしまいました。

「名古屋ウィメンズマラソン」を完走した野口が言いました。

心の中で(13年の)途中棄権が引っかかっていました。「このままでは終われない。どうしても走り切りたい」と-

02年3月、初のフルマラソンに挑んだレースが、この大会(名古屋国際女子マラソン)だったことも、野口の気持ちに拍車をかけたことでしょう。

例えば、ボクサーが進退をかけるとき、自分の“納得度”が、その尺度となるのだそうです。

元世界王者の浜田剛史氏が言いました。

〈つまり、試合があり、その結果に自分が納得すれば引退に踏み切るだろうし、悔いが残れば“もう一丁!”となるでしょうね〉

長い間、多くの選手たちを見守り続けてきた、帝拳ジムのマネジャーを務める長野ハルさんは「負けたとき、負けた理由がわかって、それが希望につながるなら再起する。つながらなければ絶望的になるでしょう」と言いました。

野口にとっての〈13年8月〉は、どうにも納得できず、悔いを残し、借りを返さないことには、終わろうにも終われなかったのでしょう。

「走るのが怖い」といった気持ちを抱いてのスタートだったといいます。レースでは、5キロ過ぎから先頭集団から遅れ、後は完走に向けて自分との戦いになったことと思います。

長い道のりとなった42・195キロは、野口に何を考えさせていたことでしょうか。

それを思うと、こちらもつい、涙腺が緩んでしまいます。

何はともあれ、失敗した自分に対して、自分でしっかりと後始末をした、トップアスリートの“矜持”には頭が下がる思いでした。
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プロフィール

佐藤 彰雄

Author:佐藤 彰雄
◆生年月日 
1944年(昭19)8月生まれ
◆出身 
神奈川県
◆プロフィール
スポーツニッポン新聞社在職中は運動部記者として大相撲、野球、ゴルフ、ボクシング、格闘技などを幅広く取材・執筆。
現在はフリーの立場でボクシングを中心に取材活動を続けている。
ゴルフのマスターズなど海外取材経験も豊富。

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