“ザ・グレーテスト”の逝去を悼んで・・・

6月3日(日本時間同4日)に呼吸器系の病気(敗血症性ショック)で逝去したプロボクシング元世界ヘビー級王者ムハマド・アリ氏(享年74)が得意とした“手品”は、現役引退後にパーキンソン病を患って身体の不自由を余儀なくされた「ザ・グレーテスト」の唯一のコミュニケーション手段だったのかもしれません。

忘れかけていた記憶をジッと目を閉じて手繰り寄せると、あの“奇跡”が起きたのは、確か・・・1988年1月のことでした。

当時のプロボクシング界は、1987年8月にマイク・タイソン(米国)が3団体の統一ヘビー級王座を獲得。同年10月の初防衛戦を経て、翌1988年1月はラリー・ホームズ(米国)相手に2度目の防衛戦を行うときでした。

帝拳ジムの本田明彦会長は、20歳でへビー級の頂点に上り詰め、日の出の勢いにあった、この“鉄人”タイソンを日本に招くべく東奔西走の日々。3月21日に東京ドームのこけら落としのイベントとしてタイソンvsトニー・タッブス(米国)戦を実現させ、そのビッグマッチを盛り上げるべく、私たちスポーツ新聞各社の記者たちは、ホームズ戦が行われるアトランティックシティ(米ニュージャージー州)で取材に当たっていました。

そんなあるとき、思わず耳を疑ってしまうような出来事が起きました。

アリが日本人記者と会うからホテルの部屋に集まってくれないか、という話です。

アリはご存知の通り、1976年6月にアントニオ猪木と異種格闘技戦「世界一決定戦」(東京・日本武道館)を行っており、日本への親近感が少なくなかったための出来事だったのかもしれません。

晩年の手品は何を意味したのだろうか?

それにしても・・・私たちは、そのときのアリに何を聞いたらいいのだろうか、ということに戸惑いつつ、かなりの緊張感に包まれながら、アリが宿泊しているホテルに行き、指定されたと部屋を訪ねました。

その部屋は、なぜか薄暗く、静寂に包まれていました。ヌーッという感じで背広姿で表れたアリは、ゆっくりと静かに笑顔を見せ、ゆっくりと静かに、緩慢な動作で無言のまま、何と手品を始めたのです。

手品は、何も持っていない手からハンカチが出てくるというもので、これは緊張しきっていた私たちの笑いを誘い、私たちが笑ったことでアリの笑顔は、また柔らかなものになりました。

その後、私たちは二つ、三つの問いかけをしましたが、アリは緩慢な動作とともにしゃべることも困難な様子で笑顔を見せるだけでした。

そうした思いもかけなかった出来事があり、しばらくしてアリの姿をテレビで観たのが、1996年アトランタ五輪での聖火台への最終走者、点火する姿でした。

止めようとしても止まらない手の震えを押さえ、懸命に大役を果たそうとする姿に熱いものがこみ上げてしまいます。

1960年ローマ五輪の金メダリスト。が、周辺に依然として渦巻く人種差別問題、ベトコンはオレをニガーと呼ばない、ベトナム人に銃を向ける理由がない、としてベトナム戦争の徴兵拒否・・・差別のない社会を求め、アリの人道活動は、プロボクサーを超えたところにあったと思います。

ちなみに初来日したタイソンが、試合後に「日本に家を持ちたい。永住してもいいと思っている」と発言したのは、社交辞令なものもあったでしょうが、本心は、日本には差別がない、ということを実感したからのことでした。

蝶のように舞った華麗なボクシング・スタイルから、長年の病により緩慢な動きを余儀なくされた晩年・・・そうした中で“手品”をコミュニケーションの手段としつつ他界したカシアス・クレイ、ムハマド・アリは、ザ・グレーテストは、何を語りかけたかったのでしょうか。

(文中、一部敬称略)
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プロフィール

佐藤 彰雄

Author:佐藤 彰雄
◆生年月日 
1944年(昭19)8月生まれ
◆出身 
神奈川県
◆プロフィール
スポーツニッポン新聞社在職中は運動部記者として大相撲、野球、ゴルフ、ボクシング、格闘技などを幅広く取材・執筆。
現在はフリーの立場でボクシングを中心に取材活動を続けている。
ゴルフのマスターズなど海外取材経験も豊富。

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